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翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム再録「原田勝の部屋」 第27回 かな漢字のこと

  かな漢字の選択はほんとうにむずかしい。個人によって感じ方がちがいますし、また、全編統一しようとすると、部分では奇妙な印象になったり……。

 コラム中にも書いているように、わたしはこんな「かな漢字表」を作りながら翻訳作業をしています。

 

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第27回 かな漢字のこと

(2010年10月25日掲載記事 再録)

 

 読者の皆さんは、文章を書く時、どの言葉を漢字にし、どの言葉をひらがなにするか決めていますか? 漢字かな混じり文は、複数種の文字を使いわける日本語独特の表記法で、うまく使えば文章の力にもなり、失敗すれば、書き手の教養やセンスのなさを暴露して、内容に入る前に読者から門前払いを食らいかねません。ですから、かな漢字の選択はとても大事な翻訳作業の一部と言えます。

 

字面から受ける印象の違い

 例えば、本稿の冒頭の一文は、「ひらがな」を「平仮名」にする以外、これ以上漢字が使えない表記です。これを、不自然にならない範囲で、目一杯ひらがなにして、いわゆる「ひらいて」書きかえてみましょう。わかりやすいように二つの文を並べてみますと、こうなります。

 

「読者の皆さんは、文章を書く時、どの言葉を漢字にし、どの言葉を平仮名にするか決めていますか?」(漢字最大限)

 

「読者のみなさんは、文章をかくとき、どのことばを漢字にし、どのことばをひらがなにするかきめていますか?」(ひらがな最大限)

 

 どうでしょう? こうして並べてみると、明らかに下の文の方が柔らかく感じられます。書き手の性別や性格まで違うように思えますから不思議です。上は生真面目で男性的、下は人あたりのいい女性的な印象を受けます。たった一文でこうも違うのですから、これが数百ページに及んだ時、作品全体の評価を左右することもあるでしょう。

 

漢字の割合を意図的に変える

 つまり、漢字とひらがなの使いわけは、単に統一すればいいものではなく、表現そのものであることがわかります。したがって、意図的に変えるべきものなのです。では、どういう判断基準で漢字の割合を増やしたり、減らしたりすればいいのでしょうか? 思いつくものをいくつかをあげてみましょう。

 

(1)原文の語彙レベル
 これが第一の基準であることは言うまでもありません。原文の語彙レベルが高く、内容も専門的な知識や背景、抽象的な表現、詳細な描写が多い場合、おのずと日本語の語彙レベルも高くなり、ひらがなでは表記しづらくなります。たとえば、「せんもんてきなちしきやはいけい」とはできませんね。つまり、原文の要求する語彙を選択すると、それがある程度、かな漢字の選択そのものになるわけです。

 

(2)語り手や視点となる人物の年齢や教養
 例えば、初老の大学教授が語り手の小説と、十歳の少女の視点で書かれた小説とでは、自ずと、使える語彙の範囲が異なり、かな漢字の比率も変わってきます。とくに注意しなければならないのは、英語では地の文なので、つい漢字を使って情景描写したら、じつは視点が子どもで、どうもしっくりこない、といった場合です。せりふの場合はもっとはっきりしていて、五歳の子どもがしゃべる時は、「お母さん、お腹が痛いよう!」ではなく、やはり、「おかあさん、おなかがいたいよう!」でしょう。

 

(3)作品全体の雰囲気
 訳者は原作が醸しだす雰囲気をくみとり、それを日本語の語彙や文章そのものににじませるべきですが、冒頭の実験でもわかるように、かな漢字の使いわけがもつ力もあなどれません。本をひらいた時、ページ全体が黒っぽく重く感じられるか、明るく軽やかに感じられるかは、漢字の割合によるところが大きいでしょう。編集者から要望が出る場合もありますが、出なくても、作品ごとにふさわしいかな漢字の割合を考えて翻訳にかかるべきです。

 

(4)対象となる読者層
 児童書の場合、これは重要な基準です。幼年むけの作品では語彙を平易なものにするだけでなく、驚くほど漢字を使わず、こんなものまでひらがなで、と思うくらい、ひらがなで通すことがあります。しかし、漢字を無分別にひらがなにするだけでは、訳文の質を保つのがむずかしくなります。ひらがなが多くなると逆に読みづらくなることがあるので、自然に読めるよう、語彙や語順を変えてリズム感を保ち、読点の打ち方を工夫して読み間違いをふせぎ、場合によっては分かち書きをする必要も出てきます。つまり、かな漢字の選択が、訳文そのものを変えてしまうことがあるのです。

 わたしの守備範囲であるYA作品でも、単にかな漢字の割合を調節するのではなく、まずは若い読者の語彙力を考えて言葉を選び、次に漢字をどれだけ使うか考えます。ただし、やさしい言葉を多く使ったり、漢字を減らしたりするのは、読者層が若いからというより、原文のYA作品が備えている小説としての読みやすさを、訳書でも確保するためと言った方がいいかもしれません。一般むけの小説でも、原文では平易な語彙が使われているのに、訳者が張り切って難解な言葉や漢字を用いるのは考えものです。すべては(1)にあげたように、あくまで原文の語彙レベルを判断した上でのことです。

 

(5)ルビの有無
 児童書やYA作品の翻訳には、ふりがな、つまり「ルビ」の問題がついてまわります。わたし自身は、幼い時にルビのおかげでずいぶん漢字や言葉を憶えたので、ルビにあまり抵抗はないのですが、多いと読みづらいのも事実です。ルビをふるのは編集サイドの仕事なのですが、訳者としては、どれくらいルビがつくのかを考えて、主体的に漢字の使用を決めたいものです。

 たとえば、児童書では漢字すべてにルビをふる「総ルビ」の場合があるのですが、これだと、「行く」「来る」「見る」「聞く」「言う」などといった漢字にもすべてルビがつくことになります。こういう時は、使用頻度の高い語は、最初からひらがなにしてしまった方がいいでしょう。じつは、一般むけの書籍でも、こうした基本動詞はひらいてあることが多いのですが、それは、ルビの有無によらず、「うるさい」感じがするからでしょう。

 総ルビではない場合、今度は、どの漢字にルビをふるかを決めるのが大変な作業で、編集者はみな苦労しています。漢字の学習学年をチェックして、想定される読者層が習っていない漢字にはルビをふるか、かなにする、という作業をする場合があります。わたしもこの方法でかな漢字の使用基準を決めようとしたことがありますが、日常的な使用実態と学習学年とに相当感覚的なズレがあり、すぐにあきらめました。「えーっ? この漢字を六年生まで習わないのに、この漢字を三年生で習うの?」ということがたくさんあったからです。

 また、よく行なわれているルビのふり方に、全編にふらずに、各ページの初出だけ、あるいは各章の初出だけにふる、という方法があります。読者は気づいていないかもしれませんが、少しでも読みやすくするために編集者や校正者の方が手間を惜しまずやっている大事な作業です。

 

(6)翻訳者の好み
 わたしは漢字がきらいではありません。つい使いたくなる方ですが、きらいな字もあって、そういう漢字は極力使いません。例えば、「開く」「閉じる」「何」「誰」「持つ」「〜込む」は、どうにも字面と音が頭の中で一致しない漢字で、見ていて気持ち悪くなります。(「気持ち」の「持ち」はしかたなく使います。「気もち」とやると、気持ち悪いので……。)ですから、出版社への「持ち込み」は、「もちこみ」とひらがなだけで表記することになります。そのため、このコラムの第二回の表題『「もちこみ」のこと』を、『「もこみち」のこと』と読み間違えた方がいらっしゃいました。うーん、そう言われれば……。「もちこみ」は「持ち込み」の方がいいのかもしれませんね。

「憶えた」と「覚えた」、「許す」と「赦す」、「切る」と「斬る」など、使いわけたい漢字もあります。でも、訳者がこだわりすぎると、読者にとって、ただわずらわしいだけということになりかねませんから、編集者からの提案にできるだけ従うようにしています。大切なのは、かな漢字の選択を訳文作りの一部と認識し、大切な表現ツールだと意識することでしょう。

 

統一のために

 理屈としては、一冊の本の中で、かな漢字の使いわけに一貫性をもたせるべきですが、やってみるとこれほど面倒なことはありません。ふだんから、この言葉は漢字で、この言葉はかなで、というのは、自分で決めているようで決めていないことが多いものです。また、文章の効果をねらって、どうしても、ここだけは漢字にしたい、いや、かなにすべきだ、という局面もあるでしょう。だからといって、その場その場の直感だけで処理していいものでしょうか?

 わたしも最初は感覚でやっていたのですが、ある時、校正者の方がわたしの訳文に対して、かな漢字の使いわけを拾って表にしてくれているのを見た時、ああ、これは自分でやるべき作業だな、と思いました。その原稿には、漢字を使ったり使わなかったりしている言葉がたくさんあったのです。そこで、それ以降は、完全ではありませんが、作品ごとにかな漢字表を作り、参照・修正しながら訳文を作っています。また、それを編集者に送り、校正作業に利用してもらうこともあります。手もとには、すでにそういう表のストックがいくつかありますから、対象年齢が似た既訳作品の表をコピーして、それを修正しながら使うことになります。修正というのは、ああ、前回はひらがなにしたけれど、どうもしっくりこないから今回は漢字にしようとか、対象年齢の割には主人公が幼いから漢字を減らそうとか、まあ、そういうことです。

 さらに、送りがなの確認や、気になるカタカナ表記の基準も入れていきます。例えば、「現われる」or「現れる」、「ベルベット」or「ビロード」、「サンドイッチ」or「サンドウィッチ」、「猫」or「ネコ」or「ねこ」などです。送りがなや表記については新聞社などから出ている「用字辞典」を参照してもいいのですが、小説の用字を新聞の用字に合わせる必要はありませんから、迷えば辞書を複数引くものの、たいていは自分の感覚でやっています。

 

翻訳者の気概

 実際には、多少のかな漢字の不統一は、すぐ次の行にでも出てこなければ気にならないものです。また、どの出版社でも、編集者や校正者が統一のためのチェックを入れてくれるでしょうし、場合によっては、統一作業そのものをしてくれる場合もあります。わたしも基準を示して直してもらうことがあります。ですから、翻訳者があまり手間をかける必要はないのかもしれません。しかし、かな漢字の選択は表現の一部であり、基本的には翻訳者が主体的に決定すべきものだとわたしは思います。そう思わないと、訳文についての責任はすべて訳者が負う、という気概が揺らいでしまう気がしてならないからです。

(M.H.)