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翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム再録「原田勝の部屋」 第35回 翻訳は芸術か? (その3)

 この回で引用した、『ブック・オブ・ザ・ダンカウ』の表紙。

 装画は、安田みつえさんです。宗教的な寓話とも言える動物ファンタジーである本書の雰囲気をよくとらえてくださっていて、大好きな表紙です。

ブック・オブ・ザ・ダンカウ

 『ブック・オブ・ザ・ダンカウ』(ウォルター・ワンゲリン作、フォレストブックス、2002年)

 

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第35回 翻訳は芸術か? (その3)

(2011年11月23日掲載記事 再録)

 

 話を二十年前にもどしましょう。翻訳学校のスタッフの方から、いきなり「芸術家の卵」と呼ばれたわたしは、最初は面食らいましたが、しばらくして、少し肩の力がぬけたように感じたことを憶えています。なぜか? それはこういうことです。

 

翻訳作業のベクトル

 以前にもこのコラムで触れましたが、翻訳を学びはじめた頃、訳文には模範解答があると思っていました。もちろん、訳者が変われば同じ訳文にならないことは、頭ではわかっていたのですが、それでも、限りなく正解に近い訳文が存在するのだと漠然と思いこんでいました。ですから、その正解を求めて勉強していたことになります。

 しかし、翻訳が芸術であるのなら、訳者によって個性が出るのは当然です。それどころか、個性がなければ芸術ではありません。同じ作曲家の同じ楽曲でも、演奏家によって印象が変わるように、同じ作家の同じ小説でも、訳者によって読者の受ける印象は変わるはずです。わたしは、そのことに気がつき、翻訳学習のベクトルを、あるかどうかわからない模範解答ではなく、原作を解釈し、それを自分なりに表現していく、という方向にむけました。

 もちろん、どんなピアニストが弾いても、ショパンはショパンに聞こえるはずで、聞こえなければ、それはピアニストの技量が足りないことになります。ですから、意識のベクトルがどっちをむいていたとしても、翻訳者に水準以上の技量があれば、最終的にできあがる訳文の出来は、そう変わらないと思います。けれど、自分でもよくわからない模範解答に収束させようとして訳すのと、ピアノの演奏のように、表現活動と考えて言葉を選んでいくのとでは、翻訳のあり方がずいぶん違ってくるのではないでしょうか。

 あの時、「芸術家の卵」と言われたわたしは、「翻訳は芸術です。表現活動なんだから、楽しくやっていい、個性を出していいんだよ」そう言われた気がしたのです。だから肩の力がぬけ、解放された気分になったのでしょう。いや、じつは、こうした意識の転換は、経験が積みかさなった結果であり、ふりかえってみるとその瞬間に起きたことのように感じるだけなのかもしれません。それでも、あの時のやりとりは象徴的な出来事としてはっきりと記憶に刻まれています。

 

翻訳者の個性

 ほとんどの文学作品は一度きりしか翻訳されません。ですから、翻訳作品の個性や出来不出来は、翻訳によるものなのか、それとも、原作そのものがもっていたものなのか、読者にはわからないことがあります。これは恐ろしいことで、少なくともわれわれ翻訳者は、原作の特徴や味わいを感じとり、それを殺したり、歪めたりしないよう努めなければなりません。翻訳は、訳者の表現活動ではあるのですが、あくまで原作者や読者に対する責任を負ってなされるべきことなのです。

 それでもなお、訳者の個性は訳文に明らかに現われます。それが端的にわかるのが、いわゆる古典新訳の分野でしょう。もともと、聖書やシェイクスピアの翻訳などで、原典の解釈や訳文の調子、語彙の個性などが比較されていたわけですが、近年では、古典と言われる小説から、著作権が切れたばかりの比較的新しい作品まで、新訳が出版されるようになりました。

 そうすると、当然のように、旧訳のほうがいい、いや、読みやすさは新訳に軍配が上がるぞ、などという比較がなされます。わたし自身はそんなに読み比べをしているわけでもなく、この話を掘り下げるだけの知識もありませんが、一度だけ、すでに翻訳されている作品を翻訳した経験から言うと(『ブック・オブ・ザ・ダンカウ』ウォルター・ワンゲリン作、いのちのことば社)、やはり訳者の違いは、訳文に否応なく現われるものだと感じました。

 旧訳(『ダンカウの書』筒井正明訳、サンリオ文庫)との比較は、通し訳を終えてから、訳し漏れや解釈のミスがないかをチェックするためにしただけで、文体の比較が目的ではありませんでした。それでも、筒井さんの訳とわたしの訳とでは、語彙や文末の処理、セリフの調子や文のリズムの違いがはっきりしていました。良し悪しではなく、ああ、この言い回しは自分では使えない、とか、感覚的にここの語順はしっくりこない、とか、そういう風に感じたのです。

 

   In the middle of the night somebody began to cry outside of Chauntecleer’s Coop. If it had been but a few sprinkled tears with nothing more than a moan or two, Chauntecleer would probably not have minded. But this crying was more than a gentle moan. By each dark hour of the night it grew. It became a decided wail, and after that it became a definite howl. And howling ── particularly at the door of this Coop, and in the middle of the night ── howling Chautecleer minded very much.
    (“The Book of the Dun Cow” by Walter Wangerin, Jr., 1978 冒頭部分)

 

 深夜深更、ションテクリアの鶏小屋の外でだれかが泣きはじめた。涙を数滴たらしながら、思わずもらした嗚咽というのなら、おそらくションテクリアもさほど気にはならなかっただろう。ところが、この泣き声は嗚咽などといったものではない。夜のとばりが降りるにつれ、その泣き声はだんだんと大きくなり、泣き声からさらに、あたりはばからぬわめき声へと変じていった。わめき声──それも、鶏小屋のすぐ外で、しかも深夜深更となれば、ションテクリアとて大いに気にさわる。
   (『ダンカウの書』筒井正明訳、サンリオ文庫、1985)

 

 真夜中、ションティクリアの鶏小屋の外で、だれかが泣き声を上げ始めた。それがもし、はらりと涙を落としながらのすすり泣き程度であったなら、ションティクリアは気にしなかっただろう。しかし、その声はとてもすすり泣きとは言えなかった。夜が刻々と深まるにつれて、はっきりとしたむせび泣きに変わり、あげくにどう聞いても遠吠えとしか言いようのないものとなったのだ。遠吠え──、それも小屋のすぐ外で、しかも真夜中のこととなれば、とても放っておくわけにはいかない。

    (『ブック・オブ・ザ・ダンカウ』原田勝訳、いのちのことば社、2002)

 

  • 原作は全米図書賞を受賞した一般読者向けのキリスト教的寓話なのですが、いのちのことば社の担当編集者からは、若い人にも読めるような訳文を、と言われていたので、意図的に漢語を減らしています。編集方針によって訳文が変わる例と言えるかもしれません。(原田)

 

訳文の個性を作るもの

 なにが訳文の個性を生むのか、というのは、文体論などの知識のないわたしには専門的な分析ができません。しかし、気がつくかぎりでは、次のような要因があるのではないかと思います。

 まずは、インプット側の個人差です。つまり原作の解釈、あるいは原作を読んだ時に喚起されるイメージや感情の個人差、という要因ですね。原作の外国語をどうやって学習してきたか、その言語に関する知識量や実体験の量によって、インプットの質が変わってくるのは当然でしょう。もともと、テキストによって喚起されるイメージや感情が、原作者の意図とぴったり重なることはあり得ませんし、それが訳者ごとに異なるのは必然です。訳者は、外国語である原作のテキストを、手もちの言語知識と、自らの記憶や感覚、知識のフィルターを通して読み、頭の中に作品世界を描いていくしかないのです。そしてその作品世界は、人によって微妙に、ときには、大きく異なってしまいます。

 次に、アウトプット側の個人差の問題があります。訳者は、原作を読んで描いた作品世界を、多くの場合は母国語で再現していくわけですが、各人の能動的な語彙や表現、つまり訳文の中で自在に用いることのできる語彙や表現には個人差があります。これは、日ごろ、どういう言葉を見聞きしているかに大きく左右されます。わたしのもっている語彙や表現力、リズム感は、幼い頃から見聞きしてきた小説、映画、マンガ、落語などの影響を受けているはずですし、生まれ育った地域の影響もあるかもしれません。最近は、サッカーを中心としたスポーツもののノンフィクションや雑誌をよく読みますから、その影響もあるでしょう。学習塾で受験生に英語を教えている影響もかなりあると思います。

 ただでさえ、このような背景にもとづく個人差がある上に、翻訳者が意図的に訳文のトーンを選択していくことによって、その差はさらに広がります。たとえば、ぼく、わたし、おれ、といった一人称の問題や、ですます調か、である調か、という文末処理の問題などは、常について回り、その一つ一つの選択が、翻訳者の個性となるのです。

 さらに、ややこしい話ですが、訳者の母国語の力が、原作の解釈に影響を及ぼすことがあります。極言すれば、われわれは母国語で表現できないことは、本当には理解していません。しかし翻訳者は、一読して理解できないからと言って、その部分を飛ばすわけにはいかず、なんとか日本語におきかえようとします。すると、試行錯誤しているうちに、ああ、そうか、と原文がはっきり理解できることがある一方で、不本意ながら、消化不良のまま自分の使える日本語の語彙の範囲で理解し、再現した気になっている場合もあるのです。つまり、アウトプットの技量の優劣が、インプットにフィードバックされるわけですね。当然、これにも個人差があります。

 

個性を適性に

 ちょっと考えただけでも、インプット、アウトプット、双方にこれだけの個人的フィルターがかかっているのですから、訳文に個性が現われないわけがありません。だからといって、好き放題にやれるかというと、もちろんそうはいきません。これが訳者の個性だといって、原作の雰囲気を壊すような独りよがりの文章や、登場人物のキャラクターを歪めるセリフなどは絶対に避けなければなりません。ことさら個性的であろうとすれば、それは誤訳の原因となってしまうでしょう。

 ですから、訳者の姿勢としては、原文に忠実に、しかし「積極的に」翻訳しようとするのがいいと思います。その結果滲み出るものが訳者の個性なのです。そして、少し高いところから見れば、その個性を自分の適性とし、好みのジャンルや傾向、あるいは特定の作家の作品の翻訳に生かしていければ、それほど幸せなことはありません。ですから、自分の嗜好や得意分野を意識し、翻訳したい作品を捜し、編集者の方々に個性=適性を認めてもらう努力をするのも、翻訳者の仕事の一部ではないでしょうか。

 次回は、キャリアとしての翻訳、という視点で、「翻訳は芸術か?」のお題を締めくくりたいと思います。

(M.H.)

 

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 原作者のワンゲリンさんが来日した際、サインをいただきました!