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翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム再録「原田勝の部屋」 第38回 歴史的現在 (その2) +『古王国記』続編情報

コラム再録「原田勝の部屋」

 この回に引用した『王国の鍵7 復活の日曜日』は、シリーズ全7巻の最終巻です。左側に見えるのが、原書 "Lord Sunday"。作者ガース・ニクスの丁寧な作り込みが楽しめるファンタジーシリーズです。

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 ガース・ニクスについては、『古王国記』の続編はどうなったんだ、と気をもんでいる方もいらっしゃると思います。既刊3巻の前日譚にあたる "Clariel: The Lost Abhorsen"(『クラリエル:姿を消したアブホーセン』)は、すでに豪英米では昨年発売されているのですが、日本では、主婦の友社がこのシリーズから手を引いてしまっているために、翻訳版を出す予定は今のところありません。

  どこかよそで既刊3巻の復刊とともに引き受けてくれるところがあればいいのですが……。とりあえず、この『クラリエル』は、前日譚というよりは、スピンオフに近くて、サブキャラである「仮面のクロール」の若いころの話なので、これを別の出版社で出してもらうのは厳しいと考えています。(一応、相談をした出版社もあるのですが……)

 ですから、本当の続編、つまり、3巻目の『アブホーセン』のその後や、モゲット、不評の犬の誕生にさかのぼる話とか、そういう作品が出れば、また、翻訳の話を動かせるのではないかと思っています。

 予定では、二クスは、もう一作は『古王国記』のシリーズを書くことになっていますから、それを待ちたいと思います。

Clariel: The Lost Abhorsen (Old Kingdom)

Clariel: The Lost Abhorsen (Old Kingdom)

 

 

 では、「歴史的現在(その2)」をどうぞ。

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第38回 歴史的現在(その2)

(2012年3月26日掲載記事 再録)

 

 前回は歴史的現在の話から始まって、文末のリズムを整えたり、状態・習慣と動作・出来事という二種類の過去を表わすために日本語の時制を使い分ける話に発展しました。今回は、日本語の現在形・過去形、それぞれがもつ「距離感」について書いてみたいと思います。

 

『源氏物語』の時制

 前回、わたしの訳文を例に挙げて説明した中に、主語を省くこと、あるいは文末を現在形にすることが、読者と語り手(=主人公)の距離を縮める、という趣旨のことを書きました。それについて、再び、『日本文化における時間と空間』(加藤周一著、岩波書店)より、関連する記述を引用してみます。

 時間の過去・現在・未来を鋭く区別しない日本語の文法は、叙述の一段落のなかで、動詞(+助動詞)の現在形と過去形(場合によっては未来を示唆する形)を、自由に、読者に違和感を与えずに、混用することを可能にする。日本語による文学的物語(narrative)の作者は、言語のそういう性質を、積極的に巧妙に利用して、独特の文体を作り出した。その典型的な例の一つが、『源氏物語』である。

 

 いずれの御時にか。女御・更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いと、やむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。はじめより、「われは」と、思ひあがり給へる御かたがた、めざましき者におとしめそねみ給ふ。おなじ程、それより下臈の更衣たちは、まして、安からず。

 

 物語の多くは、その内容が過去の出来事に係わる。ここでは「いずれの御時にか」がまず出来事全体の過去に──正確には特定できない過去に──属することを示す。その後に続く動詞(+助動詞)は、「さぶらひ給ひける」が過去、「あらぬ」が現在、「ありけり」が過去、「そねみ給ふ」と「安からず」が現在の形である。語り手の意識にとっては、過去形は対象との距離を強調する。女御・更衣が大勢居たこと(「さぶらひ給ひける」)、そのなかに身分はあまり高くないが、すぐれて時めき給う主人公が居たことは、過去の客観的状況である。そこで何がおこったか。「そねみ」がおこり、更衣たちの不満がおこった。それが現在形で叙述されているのは、語り手にとっては強い関心の対象だからである。現在形の動詞によって、語り手の意識は対象に接近する。読者にとっては、閉鎖的な小集団内部での女たちの嫉妬という複雑で劇的な場面への臨場感が急にあらわれるだろう。
        (『日本文化における時間と空間』、54〜55ページより)

  この、「現在形の動詞によって、語り手の意識が対象に接近する」という部分を読んで、今まで感じていたことがまちがっていなかったのだと思いました。つまり、日本語の過去形・現在形は、語り手と対象の距離を調節する手段でもあるのです。わたしの考えでは、「語り手と対象の距離」だけではなく、「語り手」、「物語の視点である登場人物」、「対象となる登場人物」、「対象となる風景や出来事」、そして「読者」など、作品内外の人物や出来事相互の距離感が、日本語の文末処理によって調節できるのではないかと感じています。

 

原文が過去形の時も

 こうした距離感を確かめるために、日英の文章を比較してみましょう。今回は訳文から先に見てみます。

 だが、ようやく落下は止まった。
 アーサーはほっと息を吐くと、第六の鍵を口から落とし、血だらけの手で受けた。のろのろと立ちあがり、片足をひとつ上の段にかける。今度は階段をのぼりながら、どこへ出ればいいか、よく考えなければならない。
  (『王国の鍵7、復活の日曜日』、ガース・ニクス作、原田勝訳、主婦の友社)

 第一文は過去形ですね。しかし、第二文は「受けた」と過去形になっているものの、その後は「かける」、「ならない」と、現在形に変わっています。原文はどうなっているのでしょう。

   But he stopped.
   Arthur sighed and dropped the Sixth Key from his mouth to his bloodied hand. He slowly stood and set his foot on the next step up. It was time to start climbing back up, while thinking hard about where to come out.
           (“The Keys to the Kingdom 7, Lord Sunday”, by Garth Nix, 2010)

 ご覧のように、すべて過去形です。そして、英語で時制表現を受けもっている動詞の位置は、stopped以外、文末ではありません。sighed、dropped、stood、set、wasは文の途中にあるため、ピリオドで息つぎしながら文を読み進んでいっても、過去形によるリズムは発生しません。ところが日本語では、各文末を英語に合わせてすべて過去形にしてしまうと、単調な文章になってしまいます。そこで、それを避けるため、訳文では、加藤周一氏の言うように、「臨場感の強調とは無関係に」現在形を混ぜてリズムを良くしていきます。

 しかし、上の文章では、現在形を用いる目的がもう一つあります。この作品は、全編、三人称過去形で綴られているのですが、視点は原則として主人公のアーサーにあります(なぜ、視点のありかがわかるかと言えば、描写が常に主人公とともにあり、主人公の見える範囲、聞こえる範囲で物語が進行していくからです)。したがって、アーサーの動作であることを一度明示してから、その後は主語なしの現在形にすることで、読者とアーサーの距離を近づけることができるのです。「片足をひとつ上の段にかける」という部分がそうですね。こうすることによって、三人称でありながら、心理的一人称のような状態を作りだします。前回、漱石の『夢十夜』の例では、こうした一回性の動作・出来事を過去形で処理する、という説明がありましたが、ここでそうしなかったのは、距離感とリズムの問題を優先したからです。

 

見かけの時制にとらわれない

 前回と今回の話をまとめると、原作の英語が歴史的現在だろうが、過去だろうが、日本語に翻訳すると、結局、現在形・過去形の混在した文章になってしまうということになります。その時、われわれ翻訳者が注意して原文から汲みとらなければならないのは、単純な時制の違いだけでなく、「語り手、登場人物、読者などの視点と、描かれた対象との距離感」です。それをもとに、リズムに気を配りながら日本語の時制を使い分けなければなりません。もとの英文の時制を忠実に再現する必要はないのです。

 もともと英語の歴史的現在は、「距離」を縮めて臨場感を出すための表現ですから、訳文においては、時制以外の手法で原作の狙いが再現できるのなら、どんどん併用すればいいのです。例えば、主語の省略や体言止め、性別や年齢にふさわしい言葉の選択などが考えられます。もちろん、本来の時制機能が示している時系列上のポジションを正確に読みとって、日本語に反映しなければならない場合(時制の一致、仮定法、過去に対する推量、各種完了形など)もありますが、文学の翻訳においては、さまざまな距離感を操作するために日本語の時制を変化させることが、読者の読みを誘導する上で非常に重要な要素なのです。

 最近読んだYA小説 “Exposure”(2008) において、カーネギー賞作家である作者のマル・ピート(Mal Peet)は、場面によって、過去形と歴史的現在を使いわけていました。物語の大半は歴史的現在で描かれているのですが、特定の主人公に関係する場面だけが過去形で描かれているのです。ストーリーは同時並行で進んでいて、過去形の部分が時間的に過去にずれているわけではありません。こうなると、時制を変えている目的は、場面ごとに文章のトーンを変え、登場人物を際立たせるためとしか思えません。このような作品を翻訳するとなると、日本語では、時制だけでこのトーンのちがいを表現することは不可能で、積極的にほかの手段を用いなければならないでしょう。

 さらに、この論を推し進めれば、英語の時制は、ベースが現在なら現在、過去なら過去に統一されていれば、とくに物語を読み進むのに困らないのだ、とも言えます。事実、原書を読んでいる時はストーリーを追うのが最優先で、基本時制が過去形か歴史的現在かなんて、あまり意識していないものです。動詞が文末に来ないことが多いのも、その理由の一つでしょう。

 

 歴史的現在の話をきっかけに、二回にわたって英日の時制のことを考えてきましたが、いかがだったでしょうか? ところで、この「歴史的現在(historical present)」という言葉、どこか哲学的な響きがあると思いませんか? 文法的な意味を忘れて見直すと、いろいろ想像がふくらみます。さらに、歴史的現在のことを、臨場感が出ることから、「劇的現在(dramatic present)」と呼ぶこともあるようです。うーん、この言葉もちょっといい感じ。ドキドキしてきます。なんたって、「ドラマチック・プレゼント」ですから。

(M.H.)