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翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム再録「原田勝の部屋」 第40回 翻訳世界旅行

 この記事を書いたあとの訳書の舞台をたどっていくと、ジュネーブ(『フランケンシュタイン家の双子』、『フランケンシュタイン家の亡霊』)のあとは、イングランド北部(『ロバート・ウェストール短編集 真夜中の電話』)、公民権運動が盛んだったころのニューヨーク(『ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯』)、フランスから北アフリカ、南米、ニューヨーク(『飛行士と星の王子さま ── サン=テグジュペリの生涯』)と周遊し、今はネパールのエベレスト直下にいます。

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 ("Lonely Planet 'Nepal' " 2009年版表紙より)

 いやはや、なんとも忙しい……。

 

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第40回 翻訳世界旅行

(2012年5月23日掲載記事 再録)

 

 これだけ円高になると、気軽に海外旅行を楽しむ人が増え、若い人も易々と国境を越えていきます。塾で教えている中高生たちは、夏休みに語学研修で英米やカナダに出かける生徒が珍しくなく、母校の外語大の学生たちも、欧米諸国のほかに、ベトナム、モンゴル、タイ、エジプトなど、アジアやアフリカの国々へも留学していきます。

 わたしも時々、自分が翻訳した作品に登場する場所を訪れてみたいと思うことがありますが、生来の出不精と貧乏暇なしのせいで、パスポートが失効してずいぶんたってしまいました。それでも、ひとつの作品を翻訳すると、その過程で、舞台となっている国のことを調べ、頭の中では主人公と一緒にその土地を動きまわることで楽しい時間が過ごせますし、何度も原稿を読みかえすおかげで、実際に行ったことのある場所より深く記憶に刻まれたりもします。

 

背景はいつもそこにある

 ある場所を言葉で表現するには、そこへ行った経験があるほうがいいに決まっています。原文のテキストがあるのだから、忠実に訳せばそれで済むとも言えますが、なにに対して「忠実」であるべきかと考えれば、それは、テキストそのものではなく、原作者がテキストで表現しようとしている情景に対してでしょう。ですから、どんな場所についても訳者なりのイメージをもち、暑い寒いを初めとする空気感を意識しながら翻訳にあたることが望ましいと思います。

 行ったことのない場所なら、次善の策として、写真や動画などの視覚情報にふれておくことが大きな助けになります。幸い、インターネットのおかげで、世界中のほぼどんな場所についても相当量の情報が簡単に見られますから、これを利用しない手はありません。観光ガイド的なサイトや個人のブログ、動画サイトには有益な情報がたくさんあります。グーグルマップのストリートビュー機能を使えば、主人公の視線で街の様子が見られることもありますしね。もちろん、映画も大いに参考になります。

 小説においては、あたりの風景が一から十まで描写されているわけではありません。作者は、読者に必要な情報だけを提供し、あとは、それを背景に活躍する人物や、そこで起きる出来事を描くことに力を注ぐのがふつうです。それでも、翻訳する身としては、映画のスクリーンに常に背景が映っているのと同じように、場面ごとの背景をぼんやりと頭の中に設定して訳しているように思います。砂漠のまん中なのか、荒れた海を行く帆船上なのか、はたまたニューヨークの高層ビルのオフィス内なのか。暑いのか、寒いのか、昼間なのか、夜中なのか、春なのか、秋なのか……。

 

記憶と重なる風景

 自分が翻訳した作品でも、時がたつと細かいところは忘れてしまいがちですが、舞台となった場所の風景や、背景が醸し出す空気感は、いつまでも鮮明に記憶に残っています。

 例えば、20年前に翻訳した『ミッドナイトブルー』(ポーリン・フィスク作、ほるぷ出版)では、イングランドの丘陵地帯が舞台でした。生垣で仕切られた、なだらかな起伏の続く田園風景は、作品のミステリアスな雰囲気とともに心の中にはっきり残っています。写真や映像でよく見る風景ですが、それがイギリスを旅行した時の自分の記憶と重なり、さらに、作品と結びついた固有の画像データとして記憶に刻まれているのでしょう。

 現地を訪れた記憶と重なる舞台と言えば、『弟の戦争』(ロバート・ウェストール作、徳間書店)に出てくるイラクの砂漠地帯もそうです。砂漠と言っても、鳥取砂丘のようなさらさらの砂ではなく、直射日光で固められた土漠と言ったほうがいい土地です。翻訳の際は、イラク南部の建設現場に駐在していた時の自分自身の記憶と、従軍カメラマンが撮影した映像や戦争映画で見た場面を重ね、そこに登場人物であるイラクの少年兵の姿をおいて訳文を考えていました。気温40度を超える暑さ、からからに乾いた空気、視界がまったくきかない砂嵐など、肌で体験した現地の気候やイラン・イラク戦争中だった街の様子などが、どこかで訳文の迫真性を生むのに役立っているのではないかと思います。

 また、『二つの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ作、徳間書店)では、アムステルダムの街を主人公が走る場面が印象的でした。主人公はイギリスから初めてこの町にやってきた少年なのですが、アムステルダムは、わたしも二十代の時に一人で歩いた町で、運河や煉瓦造りの建物が目に焼きついています。主人公も訪れるアンネ・フランク記念館は、やはり強い印象を受けた場所でした。アムステルダムのもつ、外国人に寛容で、歴史を感じさせながら、どこかモダンな雰囲気は、物語の主題とも重なり、忘れられない作品の舞台となりました。

 

作品で旅を

 自己の体験と重なる作品を翻訳するのはとても幸福なことですし、きっと、いい訳文ができるはずです。しかし、当然のことながら、行ったことのない場所が舞台となっている作品も翻訳しなければなりません。そもそも、外国文学を読む楽しみの一つは、作品の中で知らない土地を旅することなのですから、翻訳にあたっても、頭の中に風景を立ち上げ、時に修正していく作業は楽しいものです。けれど、そこが実在の場所であるならば、原作者は多くの場合、その土地を訪れた体験にもとづいて、あるいは、わざわざ取材に行ってから書いているはずです。翻訳者としては、ただ楽しんで読めばいいわけではなく、描写されていない部分を含む情報をある程度インプットした上で翻訳にあたりたいものです。

 一昨年、2010年に翻訳した『スピリットベアにふれた島』(ベン・マイケルセン作、鈴木出版)では、北アメリカ大陸の太平洋岸、カナダの西海岸からアラスカにかけて、多くの島が点在している地域が舞台でした。この作品では、テキストそのものから土地の空気感を強烈に感じることができました。自然の厳しさがテーマのひとつなので、海や島、川や泉などの地理的なことから、雨や風、雷、嵐、寒さなどの気象条件までしっかり描かれているのです。それを丹念に翻訳していくことで、主人公の無人島での暮らしを追体験できました。しかし、なにも情報がないところから訳文を練ったかと言えばそうでもなく、あらかじめ写真や動画でこの地域の風景を視覚情報として見ていたことで、頭のどこかでそれを下敷きにして翻訳していたように思います。

 今年(2012年)夏ごろに出版予定の『大地のランナー(仮題)』(ジェイムズ・リオーダン作、鈴木出版)は、南アフリカ共和国が舞台です。主人公の黒人の少年が、アパルトヘイト下の南アで育ち、マラソンランナーとして活躍する実話にもとづく小説です。この作品には、主人公が生まれ育った、粗末な家が立ちならぶヨハネスブルク郊外の黒人居住区や、ハイフェルトと呼ばれる草原地帯、茅葺き屋根の丸い土壁の家がならぶ部族の村、厳しい労働を強いられる金鉱山などが登場します。

 翻訳にあたっては、ネットで画像をチェックしましたし、『遠い夜明け』、『ツォツィ』、『インビクタス』など、南アを舞台にした映画も見ました(どれも傑作です!)。調べものの多い作品でしたが、それを楽しむこともでき、南アのつらい歴史や現状もわかりましたし、すばらしい自然に恵まれた国だということも知りました。こうした作業のおかげで、またひとつ、なじみのある国ができたように思います。そう考えると、翻訳を通じて、一種の海外旅行をしているとも言えそうですね。

 

次の旅はどこへ?

 わたしは、英語で書かれた作品を翻訳しているわけですが、英語を公用語とする国は、英米だけでなく、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国、フィリピン、インド、シンガポール、などなど、たくさんありますし、原作者の出自や興味によって、さらに多くの国を舞台にした作品が続々と生まれています。ですから、次は、いったいどこへ旅ができるのだろうか、と楽しみでなりません。

 え? 今、翻訳中の作品の舞台はどこか、ですって? これがまた素敵なところなんですよ。ご存知、スイスはレマン湖の畔、ジュネーブです! ジュネーブと言えば、二十云年前、新婚旅行で行った時──、ああ、この話は長くなりますから、いずれ、また。

(M.H.)