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翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム再録「原田勝の部屋」 第44回 鉛筆と赤ペン

 まとめ買いした「消せる赤ペン」も、だいぶ減ってきました。たくさん仕事をして、どんどん使いたいものですが、赤ペンが使われるということは、ワープロで訳文をこしらえた段階での完成度が低い、ということでもありますから、赤ペンの在庫は減らないほうがいいのかもしれません。

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(愛用の「三菱鉛筆ボールペン シグノ イレイサブル」。ふつうの消しゴムで消せます。)

 

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第44回 鉛筆と赤ペン

(2012年10月22日掲載記事 再録)

 

 先月(2012年8月)掲載された、お隣、岩坂さんのコラム、第38回『自分の名前で本を出したいですか』( 岩坂彰の部屋│e翻訳スクエア )は、とても興味深い内容でした。とくにウェブニュースの翻訳では、一次翻訳者が作った訳文に複数の人の手が入り、リライトされていくことを知って、文学の翻訳とはずいぶんちがうのだなあ、と驚きました。

 

文芸翻訳の場合

 わたしは文学の翻訳、いわゆる文芸翻訳に携わっているわけですが、毎回、すべて一人で訳文を練り、最後まで一人で完成させていきます。本になったテキストは、わたしが自宅のパソコンで入力した原稿をもとに、出版社が作る校正紙、いわゆるゲラに、自分で赤を入れたものが活字となって印刷されたものです。

 いや、厳密に言うと、一人で完成させるのではなく、編集者や校正者の助けを借りるのですが、編集者さんたちは、あくまでも鉛筆で、こうしたらどうですか、という提案を書き入れてくれたり、事実関係がおかしいところを指摘してくれるのであって、勝手に文章を書きかえてしまうことはありません。訳文を断わりなく改変する権利は編集者にはないのです。もちろん、明らかな誤字・脱字については赤で直しを入れてもらいますし、かな漢字の統一について、一定の了解のもとに訂正作業を行なってもらうこともあるのですが、それも、校了までには必ず訳者が一度は目を通します。ですから、訳文に対する責任はすべて訳者が負うことになります。

 編集者の皆さんは、ほんとうに細かいところまでチェックしてくれて助かりますし、原文との突き合わせまでしてもらうこともあります。それでも、原稿への書きこみは、あくまで鉛筆によるもので、訳者は、その指摘を反映して赤ペンで直しを入れるのです。鉛筆の書きこみがどんなにたくさんあっても、赤字の訂正だけが採用されます。

 ゲラにする前の訳稿から、初稿、再稿、時に三稿まで出すので、こうした作業は二度、三度と繰り返されます。これはまた、翻訳者としての技量向上の大きなチャンスでもあります。自分の文章に人の手が入るというのは、なんだか悔しい気持ちにもなりますが、鉛筆を入れてくれる編集者は、別にあら探しをしているわけではなく、よりよい作品にするために、精一杯のアシストをしてくれているので、こちらも一生懸命考えます。

 駆けだしの頃は、鉛筆がまっ黒に入ったゲラが送られてきて途方に暮れました。こんなに自分の訳文は「まちがっている」んだろうか、と思い、落ちこみました。でも、それだけ突っこみどころのある原稿でも、わたしが赤字で直さないかぎり訂正されません。そうは言っても、わざわざ編集者が書きこむのですから、わたしの訳文がまずいか、少なくとも別の表現方法がある、ということです。ひとつひとつ真剣に検討し、編集者の提案を受けいれるのか、それとも、もとの訳文で通すのか、あるいはまた、第三のよりよい表現をひねりだすかしなければなりません。

 

赤ペンだって消せる

 ゲラに直しを入れていく時、さらさらと赤ペンを走らせて……、なんてことは不可能です。ああでもない、こうでもない、と思い悩むのが常です。

 ……ああ、編集者さんの鉛筆はもっともだなあ。どうして気づかなかったんだろう。でも、この通りに直すのはしゃくだしなあ。よし、類語辞典を調べてみよう。おおっ、こういう言いまわしがあるじゃないか。しめしめ。これでよし、と。さあ、次のページだ。げっ、今、調べて使ったばかりの言葉をこっちで使ってるじゃないか! さすがに同じはまずいだろ。五行しか離れてないからなあ……。ああ、どっちを残そう。やっぱ、さっきのところは直したあとの言いまわしのほうがいいなあ。ということは、こっちを直さなきゃいけないのか。編集者さんのさっきの提案を、こっちで使うってのはどうだ? ちょっと原文を確かめておこう……あれっ、あっちもこっちも同じ単語じゃないか! じゃあ、日本語も同じで行くか……。でもなあ、なんか、まわりの言葉と相性が悪いんだよなあ。別に、推理小説の伏線でもないし、同じじゃなくてもいいだろう……。

 と、まあ、こんなことを延々と続けるわけです。当然、赤ペンで直したところを、さらに直したくなることがあります。今は、消しゴムで消せる赤ペンがあるので、躊躇なく直していきますが、油性ボールペンを使っていた頃は大変でした。赤字をさらに修正すると、まず修正液が乾く時間がもったいないし、集中が途切れます。さらに、修正液でごわごわになった上から書くので、字がふらふらして、フラストレーションたまりまくりでした。

 了解を得て、ふつうの黒い鉛筆で直していた時期もあります。もちろん、そうすると、編集者さんの鉛筆の書きこみを消しゴムや線で消したり、それを生かしたい時には、はっきりと◯で囲んだり、とか、そんなことをやっていました。でも、今は楽勝です。消しゴムで消せるペンを発明した人に感謝ですね。

 

ほんとに直ってるのか?

 でも、翻訳者の入れた赤字は、ちゃんと直してくれてるんだろうか? そう思ったことがありました。疑り深い? いえいえ、責任感です(笑)。なので、再稿のゲラをもらう時に、鉛筆や赤字の入った初稿の写しをもらって、確認しながら再稿のチェックをしたことがあります。これには別の目的があって、編集者さんがあれだけ丁寧に鉛筆を入れてくれたのだから、再稿で生かせる部分があるかもしれないし、自分の最初の訳文も確認できる、と思ったからです。

 結論から言うと、これはうまくいきませんでした。まず、赤字はちゃんと訂正されていました。当然です。疑ってすみません(汗)。次に、初稿の書きこみを生かすのはとてもむずかしいことだとわかりました。初稿を参照しながら再稿を読んで直しを入れるのは、ものすごい手間なのです。大きな直しは初稿で入れてありますから、当然、テキストはリズムもよくなり、読むスピードも上がります。読者の読むスピードに近づいていくのです。横目で初稿を見ながら読んでいくと、リズムもスピード感もチェックできません。再稿からは、作品全体への目くばりを中心にした直しとなることを身をもって知りました。

 まれに、こちらの指示なく、テキストが改変されてしまうことがあります。わたしの経験では、かな漢字の使い分けに関して、時おりそういうことが起きます。とくに児童文学の場合、編集者は漢字の使い分けや統一に信じられないほどの手間をかけ、気を使って本を作っています。ほんとうに、一言一句まで統一しようと腐心しているのです。けれど、きらいな漢字は使ってほしくないし、また、同じ言葉でも、熟語の中では漢字にするとか、ここは子どものせりふだから、かなにするとか、そういう配慮をしている場合もあります。ですから、一律に統一してもらっては困るのです。かな漢字の処理については、翻訳にかかる前に、出版社としての基準や方針があるのか、統一に関してはどういう手順でやるかを確認しておくべきでしょう。

 また、わたし自身は経験ありませんが、訳文そのものを勝手に変えられてしまった、という話も聞かないではありません。文芸作品をずっと担当してきた編集者さんは、そんなことは絶対しませんが、雑誌などを担当していた編集者さんの中には、もしかしたら、テキストに対する意識が少しちがう方がいるのかもしれません。しかし、文芸作品において訳文を勝手にいじる権利は編集者にはありませんから、もし、そういうことがあれば、はっきりと指摘すべきです。経験の浅い翻訳者にとってはむずかしいかもしれませんが、これは最低限のルールです。裏返せば、勝手に直したくなるような訳文は書くな、ということですから、気合いを入れて丁寧な仕事を心がけなければなりません。そういう意味でも、スケジュールに余裕のない仕事はリスクが大きく、最初のうちは避けたほうが長い目で見てプラスだと思います。

 

「編集者はおもしろくできない」

 ご存知の方も多いと思いますが、主にミステリの翻訳を手がけていらっしゃる中村有希さんのホームページ『翻訳家のひよこ』には、「ひよこの心得」と「こぼれ話」という、出版翻訳をめざす人にとっては、おもしろくて、とてもためになるコーナーがあります。その中で、以前、中村さんは、こんなことを書いていらっしゃいました。曰く、「編集者は原稿の間違いをなおすことはできるけれど、原稿に手を入れておもしろくすることはできない」(詳しくは、『翻訳家のひよこ』の「ひよこの心得」7を参照。)。

「おもしろくする」という言葉は、わたしなりに解釈すれば、「文学作品として魅力をもたせる」ということでしょう。一語一語の選択はもちろんですが、とくに、言葉づかいによる登場人物のキャラクター設定や、文章のリズムやスピード、かな漢字の使い分けなどは、翻訳者の判断でかなり印象が変わり、作品としての出来が変わるので、腕の見せどころです。そして、ここが、「だれが翻訳したか」が意味をもつところなのです。

 岩坂さんのコラムの話にもどりますが、「訳書に自分の名前を出す」ということは、自分が手がけた仕事だという証であることのほかに、訳者によって作品が変わるという事実を踏まえ、読者の「責任者出せ!」という思いに応える義務の遂行でもあり、また、翻訳も批評の対象にする、という、文学としてのあり方の一部でもあるのではないでしょうか。

 この話題については、引きつづき、次回で。

(M.H.)