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翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム再録「原田勝の部屋」 第46回 作家の精神

 外国の作家さんの講演会は、そう頻繁にあるわけではありませんが、聴きにいくとなかなかおもしろく、刺激を受けます。今まで行ったのは、ダニエル・キース、ジェフリー・アーチャー、ショーン・タン、そして、この時のデイヴィッド・アーモンド。自分の訳書の原作者としては、ウォルター・ワンゲリン・ジュニア、エイダン・チェンバーズ各氏の講演も聴くことができました。

 

 "Skellig" は、アーモンドさんの児童文学作家としてのデビュー作ですが、いきなりカーネギー賞を受賞しました。

  これは、我が家にある原書です。印象的なカバー絵ですね。写真に撮ろうと思って引っ張りだしてみたら、中にこの本を貸していた編集者さんからの返却時のメモが入っていました。うーん、なつかしい。

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  下は日本語版。このタイトルには最初むちゃくちゃ違和感があったのですが、そのうち、これはこれでありかな、と思うようになり、今ではもうすっかりなじんでしまいました。アーモンドファンは、「肩甲骨」と言いますね、たいてい。

肩胛骨は翼のなごり (創元推理文庫)

肩胛骨は翼のなごり (創元推理文庫)

 

 

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第46回 作家の精神

(2012年12月17日掲載記事 再録)

 

 イギリスの児童文学作家、デイヴィッド・アーモンド(David Almond)氏が、この秋来日し、各地で講演会やワークショップを行ないました。今回は、2012年11月5日に行なわれた、日本国際児童図書評議会(JBBY)主催の講演会を聴いて感じたことを書いてみたいと思います。

 当日、千駄ヶ谷にある津田ホールの会議室(募集は100名だったのですが、もっといたかもしれません)は満席で、彼の日本での人気の高さを物語っていました。赤いチェックのシャツをはおったカジュアルな服装のアーモンドさんは、やさしい語り口で、気のいいおじさんという雰囲気でしたが、作家ならではの直感力や繊細さを感じさせる内容を、温かく簡潔な言葉で語り、どこか作風と共通する点があるように思いました。司会進行は、彼の著作を複数翻訳している、わが師匠、金原瑞人先生が担当、一時間半の講演会はあっという間でした。

 

作家のノート

 アーモンドさんは1951年生まれ、児童文学作家としてのデビュー作、“Skellig”(1998、邦訳『肩胛骨は翼のなごり』東京創元社、山田順子訳)で、いきなりホイットブレッド賞とカーネギー賞という、権威あるイギリスの児童文学賞を受賞し、その後も着実に佳作を発表、2010年、すぐれた業績を残した児童文学作家に贈られる国際アンデルセン賞を受賞しました。

 “Skellig”という作品は、原書が話題になってすぐに読みましたが、児童文学の枠にとらわれないファンタジックな作品で、強烈な印象を受けたことを憶えています。自分が訳したい、と思いましたが、版権は早々に取得されていて、かないませんでした。この作品で彗星のように児童文学界にデビューしたアーモンドさんですが、じつはその前に20年ものあいだ、一般読者むけに小説を書いてきた経験が、若い読者むけの作品として結実したということです。

 今回、古びた分厚いノートを持参してきたアーモンドさんは、その中身をプロジェクターに映して見せてくれました。どのページも、縦横斜め、ランダムに書きこまれた手書きのメモでびっしり。一部を拾い読みしてくれましたが、子ども時代の記憶の断片や、小説の場面やプロットのアイデア、いたずら書きなどもあり、アーモンドさん本人も、拾い読みしながら、「自分でも忘れていたが、これはあの作品に生かされている」とか、「この翼のある人の絵は、“Skellig”の原形かもしれない」などと、言っていました。

 忘れていたということは、メモから直接作品を組み立てるわけではなく、ご本人曰く、メモから作品へと“leap”するのだそうです。司会の金原先生が、親交の深い作家、江國香織さんは、主人公の身上書を始め、綿密な構成ノートを作ってから作品を執筆している、という話を紹介しましたが、アーモンドさんはそういう手法をとらず、いきなり跳び移るように、作品を書いていくのだそうです。おもしろいなあと思う一方、翻訳者としては、leapした先のテキストだけを見て翻訳する危うさや限界を痛感しました。

 

“telling gap”

 上の話と共通点がありますが、この日、同席された前国際アンデルセン賞選考委員、ジュンコ・ヨコタさんは、アーモンドさんの受賞理由のひとつに、「読者を信頼し、語りすぎない」という特徴がある、と説明されました。これを、どうやら文学論では“telling gap”と言うらしいのですが、この話を聞きながら、やはり、これも翻訳者泣かせの手法だなあ、と思いました。

 情景や心境が逐一描写されていれば、それを丹念に翻訳していくことで、原作の世界は別の言語で再構築されていくはずです。現実にはそれさえむずかしいのに、「読者を信頼して語りすぎない」と言われたら、仲立ちをする翻訳者は責任重大です。作家は、描写に余白を残すことで、あるいは、結末をわざと書かないことで、読者に想像力を働かせる余地を提供するわけですが、ある程度は、読者にこんな想像をしてほしい、という思惑があるのではないかと思われ、それを忖度しながら翻訳するのは骨の折れる作業だからです。いや、不可能でしょう。そもそも、作者にそんな思惑があるかどうかさえわからないのですから。ならば、そんな忖度は無用で、翻訳者自身の感性で処理すればいいのでしょうか? いやいや、無色透明の心がまえで訳語の選択に望むことが肝要なのでは……?

 こんなことを、外国から来た作家本人を目の前にして考えていると、翻訳というのは伝言ゲームのようなものではないかと思いました。伝言ゲームでは、往々にして、伝えていくうちに、内容がすっかり変わってしまうことがあるわけで、いや、恐ろしいことです。

 

物語は読者一人一人のものになる

 さらにアーモンドさんは、こんなことも言っていました。「言葉は映像だ」というのです。本のページには言葉がぎっしりならんでいるが、そのひとつひとつに、読者が固有に連想する色や形、香りや音や感触がある。言葉の連続であるテキストは、そういう五感を刺激する映像が並んでいるようなものだ、と。

 たとえば、と言って、 “baby”という単語を例に挙げました。読者はbabyという言葉を目にすると、自分の記憶の中にある赤ちゃんを思い浮かべ、同時に、その赤ちゃんを抱いた時の柔らかな感触やミルクの匂い、まわりにあったベッドやおもちゃ、その子にまつわるエピソードを思いだすだろう。それによって、読者は固有の物語を作っていく。だから、文学作品というものは、作家と作者のコラボレーションなのだ、と。

 この話は、本コラムの第34回「翻訳は芸術か?」(その3)で引用した、「読書は表現活動である」という、作家、北村薫さんの言葉と重なります。要するに、百人読者がいれば、百通りの受けとめ方があるわけで、物語や小説というものは、そういうものなのです。となると、作家と読者のあいだに介在する翻訳という作業について考えざるを得ません。

 理想を言えば、翻訳者は、訳文が喚起する映像の振れ幅を、原作がもっていた振れ幅の範囲内に収めなければなりません。さらに、前項で述べた、語られていない部分について読者が想像力を働かせる範囲を、原作のそれに近づけなければなりません。しかし、そんなことはやはり不可能でしょう。なにより翻訳者自身が読者であり、原文解釈やイメージの想起において固有の揺れをもっているのですから。

 おそらく、これという正解はないのでしょうが、文芸翻訳に携わる身としては、いろいろ考えさせられる話です。まあ、試行錯誤するしかないのですが、それでも、物語というものがどういうものか、本を読むとはどういう作業なのかを理解して翻訳にあたることは大切なことでしょう。

 

芸術と勇気

 もうひとつ、印象に残った言葉がありました。たしか、絵本における画家との共同作業について質問された時のことだったと思います。むろん、だれに挿し絵を描いてもらうかは、アーモンドさんの希望や了解のもとに決定されるのですが、できあがった挿し絵が気に入らないものである可能性はないのか、と問われた時のことです。

 彼はこう答えました。「芸術的な仕事というものは、常に賭けの要素を伴い、勇気をもつ必要がある」と。直接的には、挿し絵に失望することはないのか、という問いへの答えでしたが、わたしには、作家という仕事における普遍的な姿勢を示しているように聞こえました。先の「飛躍」(leap)もそうですが、「勇気」(courage)という言葉も、理詰めだけでは成立しえない物語というものの本質や、飛躍した結果が吉と出た時の喜びを、端的に表現しているように思います。

 ただし、翻訳者が「勇気をもって飛躍する」のは危険であり、悪い結果を生むことが多いように思います。訳文を整えることに関しては、冷静に技術的判断で処理していく必要があると思いますが、でも、心のどこかには、こうした「飛躍」や「勇気」をもってテキストを読み、訳文を練ることは、訳書を文学として成立させるために、じつは大切なことではないでしょうか。

 

作家の存在を感じて

 まとまりのない感想になってしまいましたが、今回、作家の話を聴くのは楽しいし、とても刺激的だと改めて思いました。頻繁とはいえませんが、出版社や書店が海外の作家を招いて講演会をひらくことが今後もあるでしょう。読者の皆さんも、ぜひ、そういう機会をとらえて、作家の生の声を聞いてみてください。なるほど、翻訳という作業は、生身の作家が書いた物語を、生身の読者に伝えるためのものなんだな、という実感をもてる貴重な機会だと思います。

 デイヴィッド・アーモンドさんの作品については触れませんでしたが、みなさん、ぜひ、読んでみてください。訳書リスト(原作刊行年順)は以下の通りです。

 

 『肩胛骨は翼のなごり』(東京創元社、山田順子訳)

 『闇の底のシルキー』(東京創元社、山田順子訳)

 『星を数えて』(河出書房新社、金原瑞人訳)

 『ヘヴンアイズ』(河出書房新社、金原瑞人訳)

 『秘密の心臓』(東京創元社、山田順子訳)

 『火を喰う者たち』(河出書房新社、金原瑞人訳)

 『クレイ』(河出書房新社、金原瑞人訳)

 『パパはバードマン』(フレーベル館、金原瑞人訳)

 『ミナの物語』(東京創元社、山田順子訳)

 

(M.H.)