翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム「再」再録「原田勝の部屋」 第53回 文体を考える

★文章の内容だけでなく、文体という得体のしれないものが、翻訳という行為を通じてなお読者に伝わる不思議。いや、伝わるのか?  というお話です。(2017年09月10日「再」再録)★

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 文体論はむずかしい。

 訳文の文体は、日本語なのですから、そういう意味では翻訳者の文体なのですが、でも、原作者の文体の一部は日本語に移るところが面白い。

 お断わりしておきますが、文体論なんて何ひとつ学んだことがないので、全部自己流による分析です。良い子は真似しないでください……。

 

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第53回 文体を考える

(2013年11月25日記事、2015年08月31日」再録)

 

【文体】(style) ①文章のスタイル。語彙・語法・修辞など、いかにもその作者らしい文章表現上の特色。「独自の──を持っている」 ②文章の様式。国文体・漢文体・洋文体または書簡体・叙事体・議論体など。(『広辞苑』第三版)

 

翻訳作品に現われる原作のトーン

 本格的な文体論というのは、どうやら恐ろしく難解な議論になるらしく、わたしには深入りする知識も度胸もありませんが、訳した作品が増えてくると、作家による文体というか、表現方法のちがいを意識しないわけにはいきません。そして、翻訳においては、その文体のちがいを日本語にどう移すのか、ということが問題になるはずです。

 はずですが、実際の翻訳作業は目の前の文章や言葉との格闘で、「文体の再現」などという、大それたことはなかなか考えられません。そもそも、成り立ちのまったく異なる英語と日本語の文体が、機械的に移しかえられるわけがないのです。文体を形成していると思われる要素は、さまざまな制約によって、その多くが埋もれ、失われていきます。

 さらに、わたしの訳書の原作者は17人にのぼりますが、訳している人間はわたし一人ですから、今度は、わたしの日本語のくせが、原作者それぞれの文体の訳し分けを邪魔します。とくに語彙に関しては、基本的には訳者であるわたしの頭の中にある語彙から選択しているわけで、おのずと使う言葉に片寄りが出ているでしょう。類語辞典を駆使し、できるだけ文脈に沿った訳語の選択に努めるわけですが、やはり限界があります。原田勝訳の作品には、わたしの訳文のくせが出ているはずです。

 それでもなお、作家の個性のうち、翻訳しても消えなかったものが訳書に現われます。題材やストーリー、構成、登場人物の設定、社会背景など、言語の壁を越えて伝わるものは当然ですが、原作のトーンというか、色というか、作家ごとに異なる表現や小説作法の特徴がにじみでるのです。これを文体というかどうかはわかりませんが、翻訳文学のとても不思議で魅力的なところだと思います。

 

日本語に移せる部分

 冒頭の広辞苑の語義に従えば、①項に謳われている、「いかにもその作家らしい」「語彙・語法・修辞など」、また、②項にある文章の様式のうち、「書簡体・叙事体・議論体など」が、本稿であつかっている文体ということになるのでしょう。しかし、語彙については、英日翻訳の場合、なかなかストレートに反映することができません。本コラムの第28回『“healing”は「癒やし」か?』に書いたように、むしろ、原作で印象的に使われている言葉を、訳書では場面に応じた別の言葉にしなくてはならないケースがあるくらいです。語法も英日の言語構造のちがいにより、まったく反映できないことが多いでしょう。しかし、明らかに、訳書に移すことのできる要素もあります。

 まず、文の長短はある程度日本語に移せます。短い文をたたみかけるように重ねていく作家の場合は、日本語でもできるだけ、それを生かすようにします。反対に、長い文章は、訳文でもできるだけ切らずに、しかし、なめらかに続けるよう努めます。もっとも、実際の長短よりリズムを優先して再現するために、英語では短い文の連続になっている部分を日本語では一文につなげたり、英語では長い文を、前から訳しおろすために途中で切って日本語にする場合もあります。肝心なのは、抑揚やリズムが訳文に移ることです。

 ほかにも、定量的な要素として、情景描写と心情描写、比喩表現の多寡、せりふと地の文のバランスなどは、忠実に翻訳していけば、原作の特徴がある程度訳文に移ります。

 一方、定量的ではない要素に文章の視点がありますが、これも日本語に移すことが可能です。原文が主人公の一人称で書かれていれば、基本的には訳文もそうします。原文が三人称でも、視点が主人公にあれば、それを意識した訳文を作っていきます。一人称多視点、三人称多視点などもあるでしょう。一見、視点とは関係ないような文章にも、必ず語りの視点がありますから、それがどこにあるかを常に意識して翻訳することによって、原文のニュアンス、とくに、作者(ひいては読者)と登場人物の距離感や温度が訳文に移ります。

 こうした要素、文の長短をはじめとする定量的なものと、文章の裏に常につきまとう語りの視点が溶けあって、その作品や作家らしいトーンやリズムが生まれるのでしょう。とくに、リズムを感じることは大切で、その上で、訳文の調子を意識して作っていくと、日本語がふらつかずにすみます。

 たとえば、一人称でせりふの少ない「独白調」、登場人物同士のせりふのやりとりがリズムを作る「掛け合い漫才調」、三人称の地の文でドラマチックに作品を盛り上げていく「講談調」、淡々としたリズムで語り聞かせるような「語り部調」などがあるでしょう。また、ひとつの作品の中で語りのリズムを意図的に変えてある場合もあります。つまり、どう書いてあるか、というよりも、むしろ、どのように「語られているか」ととらえるのです。

 こうした「○○調」を日本語で表現するには文末の処理が大きな役割を果たします。です、ます、だ、だった、である、でしょう、だろう、体言止め、三点リーダー(……)、ダッシュ(──)etc.の使い分けですね。さらに、語り方を意識すれば、文末処理だけでなく、訳文全体のリズムも整えることができると思います。テクニックも必要ですが、それよりも、原作を日本語で「語り直す」意識が大切なのです。

 

児童文学・ヤングアダルト文学の制約

 わたしの場合、訳書の大半が若い読者を想定した小説なので、もともと、作家は語彙を絞り、凝った表現を避けていることがほとんどです。つまり、作家は読者を想定して作品の文体を設定しているわけです。英語は日本語ほど、児童文学と一般の文学とで使われる言葉の差がないように思いますが、やはり、小学生から読める作品と、ヤングアダルト以上の読者を対象とした作品とでは、明らかに語彙や修辞、一文の長さが異なりますし、一般向けの作品と比べれば、さらに、その差は明らかです。

 たとえば、わたしは、オーストラリアの作家、ガース・ニクスの作品を11作翻訳していますが、幼年向けの読みもの『海賊黒パンと、プリンセスと魔女トロル、2ひきのエイリアンをめぐるぼうけん』、小学校高学年以上を対象としていると思われる『王国の鍵』シリーズ、さらに、中高生以上を対象としていると思われる『古王国記』シリーズとでは、明らかに語彙や描写の細かさに差があります。

 おそらく、一般的な文体論というのは、こうした読者の年齢層による文体の書き分けに焦点をおいていないと思われますが、わたしのような翻訳者は、原作が想定している読者の年齢層をさぐりながら訳文を選んでいくことになります。辞書に載っている語義を無神経に使うわけにはいきません。つまり、児童文学の翻訳者たちは、原作と訳文、双方の文体に自ずと敏感になり、その上で、制約を受けた翻訳作業を強いられていると言えます。

 これは苦しい作業で、原作の物語世界をやさしい日本語で再構築する訓練を絶えず自分に課していることになります。少ない材料でおいしい料理を作れと言われているようなものですね。しかし、よく考えてみれば、こうした語彙レベルのちがいというのは、一般の読者むけに書かれた作品でもあるわけで、えらく難解な語彙、息の長い文章を好む作家もいれば、常に平易な語彙、歯切れのよい文章で書く作家もいます。さらに、同じ作品の中でも、せりふ部分は、発言者の年齢や立場で語彙や表現が変わっていきます。児童文学の場合は、それが顕著なだけです。結局、どういう読者に、どういう視点で物語を語ろうとしているのか、ということを、翻訳者は意識しなければならないのです。


作家の色

 一冊の小説を翻訳すると、その作品、もしくは原作者のカラーがはっきりと心に残ります。同じ作者の作品なら、二作、三作と翻訳していっても、やはりそのカラーは随所に感じられます。それを作家の個性というのでしょう。

 たとえば、ガース・ニクスは薄暗い情景描写が多いのですが、表現そのものは非常に明快で、プロットもきっちり構成され、時間をかけて推敲しているせいか矛盾のない文章を書く作家です。とてもまじめな人だということがよくわかります。人物の心理への踏み込みはやや浅いようにも思いますが、それが逆にさわやかな印象を残します。

 ケネス・オッペルも、ニクスによく似た作家です。文章の明快さ、プロットに破綻がないところは、もしかしたら、それぞれオーストラリア、カナダの作家として、アメリカのヤングアダルト市場を意識しているからかもしれません。二人とも、わたしの中では、とてもすっきりとしたイメージの作家です。

 次回以降、こうした作家へのイメージをからませながら、自分の訳書を例に、作家や作品のトーンのちがい、翻訳上のポイントなどをとりあげてみたいと思います。

(M.H.)