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翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム再録「原田勝の部屋」 第54回 文体研究(1) ── 『フェリックスとゼルダ』

コラム再録「原田勝の部屋」

 この回でとりあげた『フェリックスとゼルダ』の帯。

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 「史上最強の楽天家」というコピーは、使えそうで、なかなか使うのがむずかしい表現だと思います。これは版元のあすなろ書房さんが考えたものです。表紙のパステルグリーンの色使いもそうですが、ホロコーストの話だとは一見思えません。そのミスマッチが狙いです。じつは、こうした装幀やキャッチコピーも、作品の文体から受ける印象が、色使いや言葉につながっているのではないでしょうか。

 

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第54回 文体研究(1) ── 『フェリックスとゼルダ』

(2013年12月24日掲載記事 再録)

 

 さて、前回の結びに、「次回以降、自分の訳書を例に、作家や作品のトーンのちがい、翻訳上のポイントなどをとりあげてみたいと思います。」と、書いたのはいいのですが、いざやろうとすると、これがなかなかむずかしい。翻訳をしている時は、作品や原作者の文体のちがいを客観的に分析しているわけではなく、原作の世界をどうすれば再現できるだろうか、ということだけを考えているからです。

 それでも、宣言してしまった手前、やらないわけにはいきません。まずは文体に特徴があり、記憶も新しいところから、『フェリックスとゼルダ』(“Once” by Morris Gleitzman, 2005)をとりあげてみましょう。

 

一人称視点と時制、そしてリフレイン

 この作品は、第二次世界大戦下のポーランドにおけるユダヤ人迫害を描いた作品で、主人公のユダヤ人、十歳の少年フェリックスの一人称の語りで物語が進んでいきます。ところが、フェリックスは最初のうち、ユダヤ人迫害の意味がよくわからず、自分がユダヤ人であることと身に迫る危険との関係性を理解できないまま、両親が息子の身を案じて預けておいた孤児院をぬけだし、その両親を捜す旅に出ます。語り手が幼い少年であることによって、物語が二重構造になるわけですね。これがこの作品の大きな特徴となっています。

 また、各章には章番号がなく、いきなり本文から始まるのですが、すべて “Once I . . .” という書き出しで、第37回「歴史的現在」でも触れたように、過去形からすぐに現在形に移行し、読者を引きずりこむ、という手法をとっています。

 たとえば、こんなぐあいです。

    Once I escaped from an orphanage in the mountains and I didn’t have to do any of the things you do in escape stories.
     Dig a tunnel.
     Disguise myself as a priest.
     Make a rope from nun robes knotted together.
     I just walked out through the main gate.
     I slither down the mountainside through the cool green forest, feeling very grateful to God, Jesus, the Virgin Mary, the Pope and Adolf Hitler. Grateful that this mountainside is covered in pine needles rather than tangled undergrowth and thorns.

    “Once & Then” (by Morris Gleitzman, 2005, 2008, Penguin Books, p.20)

 

 昔、ぼくは、山の中の孤児院から脱走したけれど、小説に出てくるようなことはなにひとつせずにすんだ。
 たとえば、トンネルをほるとか。
 司祭になりすますとか。
 シスターの僧服を結びあわせてロープがわりにするとか……。
 ぼくはただ、表門から歩いて出ていっただけだ。

 ひんやりとした緑の森をぬけ、山の斜面をすべりおりながら、神様やイエス様、聖母マリア様、法王様、そしてアドルフ・ヒトラーに心から感謝した。ありがとうございます。今朝、ナチスの男たちが帰っていったあと、シスターたちが門に鍵をかけないようにしてくれて。山の斜面を、からみあった下草やトゲだらけの藪じゃなくて、マツの落ち葉でおおってくださって、ありがとうございます。

   『フェリックスとゼルダ』
   (モーリス・グライツマン作、2012、あすなろ書房、p.42)

 原作の英文を見るとわかるように、第5文までは一文ごとに改行され、過去形の枠の中で書かれていますが、第6文からは歴史的現在を用い、改行も一文ごとではなくなります。ここでははっきりしませんが、じつは、主人公のフェリックスはホロコーストを生きのびて大人になり、戦後この話を回想している節がうかがわれます。各章の出だしの過去形にはそういう意味もあります。しかし、歴史的現在に移行したあとは、主人公の一人称で、しかも、ユダヤ人迫害の事情をよく理解していない本人の、読者に語りかけるような記述で、臨場感をもって物語が進んでいきます。訳文は闇雲に現在形にできませんから、臨場感の再現を考えて文末の言葉を選びました。

 また、原文がとてもリズムのいい文章だということが、引用した部分からもわかると思います。とくに、 “Dig a tunnel.” からの4文は、動詞から始まる文を3つ、しかもしだいに長くなる文を重ね、4つめの文で “I just walked . . .” と、主語・動詞から始まる過去形の文で引き締める、というリズムですね。これを訳文では、「たとえば」から始めて、これから述べることが例示であることを読者に意識させ、第2、第3、第4文の文末を「〜とか」とすることによって共通性をもたせ、第4文の最後に「……」を加えて、例示が終わることを示しました。

 さらに、原文にはありませんが、訳文では、歴史的現在の語りが始まる前に一行空きを入れてワンクッションおき、読者の頭の切り替えのきっかけにしました。これは編集者からの提案だったと記憶しています。歴史的現在を、日本語でもすべて現在形にするわけにはいきませんので、これはひとつの方便です。引用部分の最後の段落も、原文では現在形ですが、訳文では「感謝した」としているように、時制をそのまま移すことはしていません。

 各章冒頭部分のパターン化の話を上述しましたが、さらに章の途中でも、同じフレーズを各所でくりかえすことによって独特のリズム感を生み、同時に、迫害の事情がしだいに主人公にも明らかになる中で、その同じフレーズが、ちがう意味をもって読者の胸に迫ってくるという、じつに巧みな語りの手法が用いられています。

 たとえば、引用した、「神様やイエス様、聖母マリア様、法王様、そしてアドルフ・ヒトラーに……」という部分で、なぜヒトラーにも感謝を、と思った方がいらっしゃるでしょう。当時のポーランドはナチスドイツに占領されているので、公式には、ポーランド国民にとっての元首はヒトラーであり、もちろん、大人たちはそのことを心の中では認めていなかったでしょうが、幼い主人公は、この時点では疑問をもっていないことの現われなのです。そして物語が進行し、どうやらユダヤ人の迫害はヒトラーの命令であるとわかると、こうした感謝の言葉からヒトラーの名前がはずされるのです。

 

短い文をたたみかける

 上の引用部分でもわかりますが、この作品の文体の特徴は、リフレインや時制の変化だけでなく、短い文を行を替えて連続させることによる緊迫感の盛り上げがあります。別の箇所を引用してみましょう。主人公のフェリックスが、夜中、住人たちが強制連行された無人のユダヤ人ゲットーのアパートに、アスピリンを捜しに忍びこんだ場面です。

    What’s that noise?
     It’s dark. The candle must have burnt down. Oh no, I must have fallen asleep here on the floor.
     The noise again, thumping. A dog growling.
     Jumble?
     No, there’s somebody in the apartment.
     Several people. Boots thumping. Torches flashing. Men shouting in another language.
     Nazi soldiers.
     Where can I hide?
     Under the beds? No, every story I’ve ever read where somebody hides under a bed they get caught.
     I know. Under the books.

     “Once & Then” (by Morris Gleitzman, 2005, 2008, Penguin Books, p.92)

  今、読んでも、緊迫感が伝わってくる文章です。主語述語をもたない語句の連続も効果的で、たたみかけるリズム感があるのに、一方で、改行によって紙面に生まれる余白が、息詰まるような時間の経過を表わしているようにも思えます。この部分は、訳文ではこうしました。

 今の音はなんだ?
 あたりは暗い。ロウソクは燃えつきてしまったんだろう。まずいぞ。床の上で寝ていたらしい。
 また音がした。ドスドスという音。犬のうなり声。
 ジャンブル?
 ちがう。アパートの中に人が入ってきた。
 一人じゃない。重い靴音。懐中電灯の光。男の声が、知らない言葉でなにかどなった。
 ナチス兵だ。
 どこにかくれよう。
 ベッドの下は? だめだ。今まで読んだどの本でも、ベッドの下にかくれたやつは必ず捕まっている。
 そうだ。本の下がいい。

   『フェリックスとゼルダ』
   (モーリス・グライツマン作、2012、あすなろ書房、p.180)

 

 どうでしょう? まずまず、原文のリズムや緊迫感を出せていると思うのですが……。一カ所、Men shoutingの部分は、Menの複数形が日本語に反映されていないですねえ。なにか考えてこうしたのかもしれませんが、「男たちが、知らない言葉でどなりあっている」くらいにしたほうがよかったかもしれません。まあ、一応、その前に、「一人じゃない」というのがあるので、赦してください。

 この部分を訳す時になにを考えていたかは憶えていませんが、とにかく、リズム感やスピード感はこわさないように、と考えていたはずです。今の部分を、もう一度引用してみましょう。

    Several people. Boots thumping. Torches flashing. Men shouting in another language.

 一人じゃない。重い靴音。懐中電灯の光。男の声が、知らない言葉でなにかどなった。

 

 原文に、いわゆるSVの形をとっている文がないということを反映して、第2文、第3文は、「靴音。」「光。」という体言止めでリズムを日本語に移しています。 “Several people.” を、「一人じゃない。」は、主人公の恐怖を表わす方向に引っぱりすぎたかもしれません。でも、severalを「何人か」とか「数人」「二、三人」とすると、妙に冷静な感じがして、極限状態の一人称の語りに似合わないと思いませんか? そして「男の声が」というように、「声」を足しているのは、主人公にはナチス兵が見えていないので、あえて「声」を入れることで、読者は夜の暗い室内が想像しやすくなると思っての処理です。

 こうした、やや原文から離れた言葉の操作については賛否あると思いますが、これくらいは許容範囲だと思います。原文を読んだ時の緊迫感を読者に伝えることが翻訳者の使命ですから、その緊迫感を生むための操作は効果的にやるべきだと思います。英文和訳ではありませんからね。

 

語りの構造を考えること

 上に書いただけでも、『フェリックスとゼルダ』という作品には、さまざまな語りの意匠がこらされていることがおわかりいただけるのではないでしょうか? この本は、中学生の読書感想文課題図書に指定されたことから、多くの中学生に読んでもらうことができました。原文の英語を反映して、訳文ではむずかしい言葉を避け、漢字も少なめにし、シンプルな表現を用いたおかげで、中学生も物語の面白さを味わうことができたようです。

 しかし、息もつかせぬストーリー展開を追うだけでも面白いのですが、一歩踏みこむと、語りの構造そのものを味わう楽しさがあります。たとえば、フェリックスの一人称ということは、きっと彼はホロコーストを生きのびたのだろうという推測ができる一方で、いや、一人称の主人公が死んでしまう小説だってあるぞ、とうがった考えをもつ人がいても不思議ではありません。

 さらに、迫害の事実を知らないように語っているのですが、その一方で、じつは、現実を直視したくないから、そんなふうにふるまっているんじゃないか、と考えたくなる場面もあります。そもそも、少年の一人称なのですから、ホロコーストを客観的に説明する文章はまったく出てこず、読み手の予備知識の多寡によって、物語の受けとめ方が大きく変わる可能性があります。日本の中学生がなにも知らずに読めば、まさしくフェリックスと変わらぬ思いで、徐々に事実を知っていくのでしょうし、そのドキドキ感は、すでに知識のある大人には二度と味わえないものでしょう。一方で、大人の読者は、ホロコーストの悲惨さを知っているからこそのハラハラ感を味わうことになります。「ああ、フェリックス、なにやってんだよお! 死ぬぞお!」みたいな感じですね。

 翻訳者にとって大切なのは、ストーリーや情景描写やせりふを日本語に移すだけでなく、こうした語りの構造を理解し、読者それぞれの味わい方のじゃまをしない訳語の選択を心がけることでしょう。たとえば、不用意な訳語の使用によって、「あれ、なにも知らないフェリックスは、そんな言葉使わないでしょ」と、読者が思ってしまってはまずいわけです。そして、フェリックスが知らないことは予備知識のない読者にもわからないままにしておくために、余計な訳注などつけず、布石のように文章を連ねていくことも大切なことです。

『フェリックスとゼルダ』については、まだまだ語りたいことがありますが、とりあえず、今回はここまでにします。これを文体と言うのかどうかよくわかりませんが、今回例に挙げたような「語り方」が、小説の構成要素としてとても大切な役割を担っていること、そして、それを翻訳していく楽しさが、少しでも皆さんに伝わったのなら幸いです。

 次回は、また別の作品の文体(語り方)を考えてみたいと思います。

(M.H.)