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翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

卒論が来た!

 以前、このブログでとりあげたアメリカ人大学生のCさん。無事、拙訳『エアボーン』(ケネス・オッペル作、小学館)を題材に、英日翻訳をテーマにした卒論を書きあげ、先日、その卒論を送ってきてくれました。いやあ、中をパラパラ見て、びっくり!

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 ご本人の了解をとりましたので、Cさんを紹介しますね。クリス・クレイゴ(Chris Craigo )さん、アメリカのアパラチアン州立大学の4年生で、高校生の頃から日本語を勉強しています。今は、岡山大学に留学中。

  論文のタイトルは『浮在(Fuzai):Culture, Contracts & Cloud Cats in the Japanese Translation of Kenneth Oppel's Airborn』。このタイトルもおもしろいですね。「浮在」は彼の造語で、この説明は論文の中でなされています。Cで始まる言葉を並べたのは、彼のイニシャル、C・Cにもかけているのでしょう。Cloud Cats は『エアボーン』を読んだ人にはわかります。

  文学の翻訳をテーマにした卒論というのはどういうことが書いてあるのか、比較文学も翻訳論も言語学もよく知らないわたしには興味津々でした。

 まず、序論の書きだしが文学的でびっくり。少し、原田訳で引用します。

 翻訳とは、一風変わった旅である。"translation" という言葉の語源そのものからは、「運び渡されたもの」というごく単純な意味合いが想起されるのだが、翻訳過程を経るうちに、テキストには、単なる交換にとどまらない、はるかに複雑なことが起きる。そして、そのテキストがようやくにして異国の岸に錨をおろす時、それは原文を映す鏡でもなければ原文の模写でもない。むしろ、原文と訳文のあいだの電気的交換、「電流」の往来の産物なのだ。翻訳は、テキストを別の言語で理解する機会を提供するにとどまらず、文学作品に対して、鋭い、時に衝撃的な再解釈の余地をもたらす。そして、その再解釈の対象は、作中に提示された人物や思想のみならず、テキストそのものとそれをとりまく諸事情にまで及び、ひいては原作に新しい生命が吹きこまれ、また、あらたな疑問が生まれるのである。

  これだけじゃなくて、論文そのもののタイトルや、章タイトルも飛行船を舞台にした『エアボーン』という作品から連想した言葉をおりこんでいて、論文というより、エッセイや小説みたいです。Cさんの文学的センスがうかがえます。

 

 本論の分析では、何箇所かを抜粋して、1)原文、2)わたしの訳文、3)Cさんがわたしの訳文を直訳して英語にもどした文(再訳文とでも言えばいいのか)、というように、三つを並べて比較するという手法をとっています。これ、すごいです。翻訳者をまな板にのせて切り刻むような恐ろしい手法です(笑)。訳したものをもう一度訳すと、原文にはもどらないのがよくわかります。誤訳じゃないんですよ。もどらないものなんです。日英の言語的な構造のちがいもありますが、翻訳にあたって訳者の(つまり、わたしの)配慮、というか、取捨選択によって、テキストのもつ情報が微妙に変わってしまうからです。

 比較の着眼点は、カタカナの使い方、訳注(あるいは本文に説明を溶け込ませる手法)、敬語表現など、興味深いものばかり。まだくわしく読んでいないのですが、いずれ、少しずつこのブログで紹介しようと思います。

 しかし、こんな風に自分の訳文を、原書の言語のネイティヴスピーカーに分析してもらえるというのはなかなかない体験だろうし、単純にうれしいことです。しかも、かなりわたしの翻訳の意図を理解してくれているようなんです。いやあ、翻訳ってほんとうにおもしろい。

 

 クリスさん、すでに来日していますので、夏には会えると思います。楽しみでなりません。

(M.H.)