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翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

読書会 ── 子どもの本を訳す時には

 月曜日は、二ヶ月に一度の古典児童書を読む会でした。課題本はミヒャエル・エンデが1960年代に書いた『ジム・ボタンの機関車大旅行』。日本で翻訳紹介されたのは1980年代になってからなので、子どもの頃に読んだ人はいませんでした。昨日の乗り物の擬人化の話でもちょっとふれましたが、重要なキャラクター、機関車のエマが活躍します。

ジム・ボタンの機関車大旅行 (岩波少年文庫)

 小学校中学年くらいの読者が対象となると思います。出来事がどんどん起きて、ありえない設定の旅先で、次々に新しいキャラクターと出会い、機関士のルーカスと黒人の少年ジム・ボタンが活躍して、お姫様を救い出し……、と、いかにも「物語」という展開です。

 ただ、参加者の皆さんが一様に、深みがなく、ファンタジーとしては今ひとつの出来、といったような辛口の感想でした。それはわたしも同感です。ただ、こういう息もつかせぬ展開の作品でなければ読めない子どももいるし、それなりのボリュームがあるこの作品を読み通せれば、本の魅力に目覚めてくれるのではないだろうか、そういう子どもに勧めたい、という話も出ました。(事実、この作品は、世界中の子どもたちに愛されているわけで、もしかしたら、後編にあたる、『ジム・ボタンと13人の海賊』を読めば、少し認識も変わるのかもしれません。かなり伏線が回収されるそうです。)

 

 みなさんの作品評価を聞きながら、考えました。自分は一応、児童書・YAの翻訳を仕事にしているつもりですが、基本的には、自分がおもしろいと思った作品を翻訳しています。でも、YAならいざしらず、とくに児童書においては、この作品のように、自分にとっては魅力に乏しいが、こういう作品を待っている子どもたちがいる、ということだってあるはずです。ということは、自分では少し物足りないと思っても、読み手のことを思い、ある程度客観的に作品の意義を判断して翻訳することがあっていいはずです。

 この会の参加者の中には、図書館員を始め、子どもに本を勧める立場の人たちもいて、どの本を勧めるか決めるために、多くの類書を読み、児童書の歴史を知り、作品を評価する目を養っています。ですから、今、児童書を作っている若い編集者や翻訳者も、そのあたりの知識を身につける努力をしてほしい、という話もでました。もちろん、作り手には作り手の創作欲や感性があり、時代とともにさまざまな条件は変わり、もとより、読み手一人一人がどう読むかはいろいろで、あらかじめ測りようがないわけで、文学作品に客観的な評価なんてない、とも言えるわけですが……。

 うーん。この話は耳が痛い。子どもの本の翻訳者の多くは、さまざまな知見の上に、訳す本を選んだり、翻訳上の配慮をしていると思いますが、自分は、児童書というジャンルから入ったのではなく、翻訳という切り口から児童書にたどりついているわけで、子どもが読んだらどう思うか、あるいは、これはどういう子どもに勧められるか、という判断を、あまり客観的にしていません。他の作品との比較考量をするだけの知識がないからです。この読書会に参加している目的は、そこを補うためでもあるのですが。

 ですから、上にも書きましたが、結局、自分がおもしろいと思った本を訳しているだけなのです。自然と、幼年向けではなく、中高生向けの作品ばかり手がけることになっています。もちろん、自分としては、背伸びして本を読んでいたあのころの感性は、今もまだ残っていると信じているし、自分が子どものころに読んで感動し、今読んでも感動できる本も確かにあるわけで、どういう本を訳すべきかの判断基準はいろいろあっていいと思います。

 さらに、これも最近感じるのですが、自分は翻訳者として児童書やYAを守備範囲としていながら、じつは読者の側に立っているというよりは、むしろ、作者の側に、作り手の側に立っていることのほうが多いように思います。つまり、それぞれの作品を書きたかった作者の思いに共感してしまうのです。だれに読んでもらいたいか、というより、書いた作者の思いを伝えたい、と自然に考えてしまうのです。

 

 これは、子どもの本に関係する大人たちの永遠の課題かもしれませんね。

(M.H.)