翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

翻訳家、伊達淳さんと。

    伊達さんとは昨日が初対面でした。お住いのある松江から、東京の出版社回りをするために上京されるというので、お会いしたのですが、とても初対面とは思えず、二時間半もの間、二人で翻訳にまつわる話をノンストップでしゃべりまくりました。楽しい時間でした。

    伊達さんのプロフィールは下に書きましたが、翻訳がやりたくて会社を辞め、外大に入り直したことだけでもすごいのに、自分の訳したい本を出版するために、出版社を作ってしまったのですから、その翻訳への情熱には驚くばかりです。

    2011年のことですが、この話を伊達さんのブログで知ったわたしは、面識もないのに、自分のコラムへの寄稿をお願いしたのでした。その時の原稿を、ご本人の許可を得て二回に分けて再録したいと思います。

    読み返すたびに翻訳に携わる者として、胸が熱くなります。

 

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 コラム再録「原田勝の部屋」 
    《寄稿》伊達淳さん(前半)

        (2011年6月27日掲載記事 再録)

翻訳家・(株)恵光社社長 伊達 淳さん 

伊達 淳(だて・じゅん)さん プロフィール

 1971年和歌山県生まれ、関西学院大学卒業後、保険会社に四年間勤務の後、翻訳家をめざして東京外国語大学に編入学。2003年、最初の訳書『マミー』(ブレンダン・オキャロル作、白水社刊)を出版し、以降、翻訳家として活躍。2010年、(株)恵光社(えこうしゃ)を設立し、その第一弾として、2011年5月に自ら翻訳した『チズラーズ』(ブレンダン・オキャロル作)を出版。その後、同じ作者によるアグネス・ブラウン三部作の三巻目『グラニー』を出版。

 兵庫県芦屋市から島根県松江市に転居した後も翻訳活動を継続。『ペレ自伝』(ペレ作、白水社)、『サル:その歴史・文化・生態』(デズモンド・モリス作、白水社)、『野生のオーケストラが聴こえる』(バーニー・クラウス作、みすず書房)、『真夏のマウンド』(マイク・ルピカ作、あかね書房)など、訳書多数。


 伊達さんのHP http://wildhearts71.cocolog-nifty.com/jd/
 恵光社のHP http://www.ekosha.com/

 

  わたしが伊達さんを知ったのは、『アラスカを追いかけて』(ジョン・グリーン作、白水社、2006年刊)の訳者としてでした。その後、翻訳家としての熱い思いがあふれる伊達さんのブログの読者となりました。伊達さんは順調に訳書を出しつづけるばかりか、ついに、ご自分で訳した本を出版するために、出版社を設立してしまいました。この事実を知るに至り、これまでの経緯や翻訳への想いを寄稿していただけないか、と依頼したところ、快く引き受けてくださり、ここに掲載の運びとなりました。

 二回に分けての掲載となりますが、今回、前半は「翻訳家になるまで、そして翻訳への想い」を、次回、後半は、「恵光社設立の経緯と想い」を中心に書いていただきました。

 伊達さんの翻訳への情熱や真摯な姿勢には学ぶべきことがたくさんありますし、伊達さんの文章を読むたびに、わたしはいつも元気づけられます。
 では、お楽しみください。

                  (原田 勝)

 

翻訳家への転身

 翻訳に出会ったのは全くの偶然でした。卒業も就職も決まって特にすることのなかった大学四年の時に、新聞の隅に掲載されていた翻訳スクールの広告に目が留まり、短い文章を翻訳してハガキで送るとあなたの翻訳力を診断しますという謳い文句に誘われたのがきっかけです。しばらくすると、もしかしたら自分には才能があるんじゃないかと思わせられる採点が講座案内とともに返ってきて、卒業までの約半年間、そのスクールに通うことになったのです。もともと小説を読むのが好きだったということもあって、その時から興味は文芸翻訳でした。

 就職してからも週末を利用して引き続きスクールに通いました。野球チームを作っていたので週末の大半は野球の予定で埋まっていたのですが、試合が終わってこれから反省会を兼ねた食事にみんなで出かけるという時に、一人だけ抜けてスクールに通ったりしていました。翻訳は(野球と同じぐらい)楽しく、スクールの宿題や予習以外にも、家にあった洋書から適当に抜粋して翻訳してみたり、邦訳が出ていれば自分の訳と照らし合わせてみたり、手探りで自分なりの勉強方法を探していたように思います。一方で仕事も二年目、三年目になってくると充実してきて、翻訳とどちらかに決めないとどちらも中途半端になってしまうと思うようになっていました。さんざん悩んだ挙句、翻訳を選びました。就職して四年目のことでした。悩んでいたというより、決断する時期を決めかねていただけで、翻訳を選ぶことになるというのは始めから分かっていたように思います。

 退職する頃には、翻訳家になるための道筋のようなものを自分なりに描いていました。外国語大学に編入学して言語学や音声学、意味論、統語論、文学史といった観点から英語をきちんと勉強し直し、夜や週末には引き続き翻訳スクールや、片岡しのぶ先生や中田耕治先生が開かれていた翻訳講座に通い、実践的な翻訳の勉強をしました。いよいよ翻訳の本当の楽しさが分かりかけてきた頃だったと思います。片岡先生のクラスでは常に読者をイメージしながら翻訳するということを、中田先生のクラスではテキストの細部に細心の注意を払うということの意味を教わりました。

 

『マミー』との出会い

 編入学した外国語大学での二年、プラス二年の合計四年を東京で過ごす間に、翻訳の勉強をするだけでなく、自分で作品を見つけて翻訳し、出版社に持ち込み、採用されるというのが当初描いていた道筋でした。だからまずは大学の夏休みを利用して、翻訳する作品に巡り合うためにアメリカに行くことにしました。飛行機でサンフランシスコに入り、そこからグレイハウンドバスに乗って北上しながら、適当な町で降りてはその町の書店に立ち寄り、本棚をチェックしたり、可能であれば店主と話したり、面白そうな書評は載っていないかと新聞や雑誌を買って読んだり、そんな束の間の夢のような旅をしながら十日ほどかけてシアトルまで行くつもりでした。その間に候補となる作品をいくつか見つけて買い込み、帰国してからきちんと読んで一冊に絞れたらいいなと思っていたのですが、その本は意外とすぐに見つかりました。それが『マミー』(白水社、2003年)の原書である”The Mammy”です。サンタモニカの小さな書店に入り、埃のかぶった本棚の中で決して目立っていたわけではないのですが、タイトルが気になって手に取ってみると、いかにも頼りになりそうなお母ちゃんと、いかにもお母ちゃんのことが大好きそうな小さな男の子、そしてその様子を遠くからうかがっているもっと小さな男の子の写真を使ったカバーデザインに一目惚れしました。迷わず購入し、再び北上するバスに乗り込んでさっそく読み始め、泣き笑いで顔をぐしゃぐしゃにしながら、翻訳したいと強く思ったことをよく覚えています。振り返ると、この出会いが決定的でした。それからも色んな町の色んな書店に行ったはずですが、他に候補作品を見つけることができず、結局この一冊だけを買って帰国したのは、”The Mammy”の印象がそれだけ強かったからだと思います。”The Mammy”を見つけた時点で、他を見つけるつもりはなくなっていたのだと思います。窮屈なバスの中や狭いモーテルで、あるいは気持ちのいい西海岸の公園で、翻訳のイメージを膨らませながら何度も繰り返し読みました。

 帰国し、さっそく翻訳に取りかかりました。BGMとして、”The Mammy”に出てくるクリフ・リチャードのCDをずっとかけていました。当時は今ほどインターネットも充実していなくて、アイルランドを知るために本屋さんや図書館や、アイルランド大使館から取り寄せた資料などで色々と調べものをしました。調べものをしていくうちにその本やその本の背景について(”The Mammy”で言うとアイルランドに関して)どんどん好きになっていくことを実感したのも、この時が初めてでした。翻訳の醍醐味の一つです。自分の世界がどんどん広がっていくように感じました。出版については何も分かっていませんでしたが、翻訳に関してはその楽しさの虜になっていました。どこへ出かけるにも原書や自分の訳文のコピーを持ち、頭のなかは常に”The Mammy”のことでいっぱいでした。大学の屋上や近くの川の河川敷に寝っ転がって、自分もアグネスやマークと一緒にダブリンに暮らしているような気分で何度も推敲しました。翻訳の勉強ではなく、翻訳でした。

 

ついに実った持ち込み企画

 そして完成すると、今度は出版社に持ち込んで出版を検討してもらうべく、レジュメを作り、全訳と、一部抜粋したものと、自分の経歴書を用意しました。どこの出版社にも当てがあるわけではなかったので、『マミー』がラインナップにあってもおかしくなさそうな出版社の見当をつけ、そこの本を買って読んだうえで電話をかけることにしました。電話では、持ち込み企画を歓迎してくれるところと、まるで相手にしてくれないところがありました。翻訳とレジュメを送るように言われて送ったところ、何か月も連絡がなく、あまり催促してもいけないと思って半年待って連絡してみるとすっかり忘れられていたり、連絡してようやく今回は期待に添いかねますという返事をもらったり、半年前に電話で話した人が異動になっていたり、持ち込み営業の難しさを実感しました。それに、一度に複数の出版社に連絡するのは誠実ではないと思ったし、そんなことをして万が一、複数の出版社からいい返事をもらった場合はどうしたらいいのだろうという思いもあったので、連絡するのは一社ずつにしていました。だからなかなか捗りませんでした。

 しょんぼりすることはありましたが、”The Mammy”と翻訳に対する想いはそんなことではへこたれませんでした。そして白水社さんとの出会いが訪れます(会社を辞めて東京で過ごす四年の間に翻訳家デビューするという道筋の期限は過ぎていましたが、五年目のことだったので、誤差のうちです)。芦屋に戻ってきて、生活費を稼ぐために再び仕事をしながら翻訳の勉強と『マミー』の営業活動を続けていたのですが、仕事を抜け出して(携帯電話を持っていなかったので)テレフォンカードを持って近くの公衆電話に行って、白水社さんに電話をかけたのでした。編集部の平田部長(当時)が、「面白かったですよ、ぜひやりましょう」と言ってくださったのです。色んなことが報われたと思いました。

 

翻訳の喜びを胸に

 白水社さんは、『マミー』の帯に「夢見ることを、あきらめないで。」と書いてくださいました。現実と夢の違いは、すでに実現しているかまだこれからかということだけです。いつ実現できるかということは実現するまで分からないので、ふと不安になることもありますが、あんまり先のことばかり考えていても仕方がありません。実現させたい夢を明確に持って、そのためにやるべきだと思うことを毎日こつこつと辛抱強く続けることが、あきらめないということだと思います。そんな地道な日々を支えてくれるのが夢や情熱です。

 書店にひっそりと並んでいた”The Mammy”が気になったのは、カバーデザインにあった母子の微笑ましい写真に魅かれたからでした。そして本当の意味でこの物語に魅かれたのは、七人の子供たちの健やかな成長と愛くるしい笑顔に支えられ、貧しくとも毎日を明るく生きていこうとする主人公の逞しさでした。陽だまりを吹き抜ける気持ちのいい風のような爽やかな読後感は、今も生き生きと胸に残っています。『マミー』は実際に店頭に並び、そしていつしか消えていきました。だけど色んなホームページやブログに感想を書いてくださっている人がいたり、図書館で今も読まれていたり、自分の翻訳を通して外国の物語を楽しんでくれている方がいるという喜びは、決して消えるものではありません。その気持ちは今も変わらず、もっといい翻訳ができるようになりたい一心で、充実した毎日を過ごしています。

(次回、後半へ続く)