月曜日の翻訳勉強会は、ロバート・コーミアのコラム集の2回目にして終わりの回。前回は、ペアを組んだ相手が訳すものは原文を見ないで訳文だけをチェックし、意見交換したので、今回はその見直し版をみんなで検討しました。
また、いくつも課題が見つかりましたが、その中のひとつを。それは、予想される読者に応じた「解説訳」の問題です。
これまで、児童文学・YA文学を扱ってきたせいで、みなさん、わかりやすく訳す癖がついていたようです。たとえば、こういう文がありました。
"But as I see her frolic in her innocence, I realize she is part of my own immortality."
("I Have Words to Spend" by Robert Cormier, p.62)
これは、墓地で遊ぶ幼い娘を見た筆者が思ったことです。
以下にあげるのはメンバーの訳例です。
「けれども、無邪気な喜びようを見ているうちに、私からつながるいのちの連なりに続くのは子どもなのだと身にしみて思う。」
「でも、無邪気にはしゃいでいる姿を見て、わたし自身がレニーとつながることで不滅なんだということに気付いた。」
「しかし、無邪気にはしゃぐルネを見るうちに、連綿と続く命の営みを、ルネが受け継いているのだと気がついた。」
どの文も、直訳は避けて、墓地に眠る人々と、筆者と、そして幼い娘との、連綿と続く生の不可思議さのようなものを言っているのだということはよくわかります。本文の "part of my immortality" を直訳している人はいません。いわゆる「解説訳」であり、ある意味、今までの学習の効果(?)でもあります。
でも、果たして、ここは単語を直訳してつないではいけないのでしょうか?
"part of my immortality" というのは、英語としても抽象的な言い回しですし、そのまま訳すことによって伝わる精神性というか、哲学的なニュアンスがあるのではないかと思うのです。ですから、わたしは、まったく細工せずにそのまま訳してみました。
「だが、無邪気にはしゃぐ娘の姿を見て、彼女はわたしの永遠性の一部だと気づいた。」
確かに読者に負担はかかります。なぜ、墓地で遊ぶ幼い少女の姿が、「わたしの永遠性の一部」なのか、そもそも「わたしの永遠性」とはなにか、考えなければならないからです。でも、それは、この文の場合、英文を読んだアメリカ人の読者にも同じようにかかる負担です。そして、わかった人は、にやりとしたり、もしかしたら、クサい表現だぜ、と思うかもしれません。それはそれでいいのだと思うのです。
児童文学の場合、時に文化や言語そのもののちがいによるわかりにくさを、注をつけたり、訳そのものに説明を溶け込ませたりして処理することがしばしばあります。しかし、そういう処理はいつも必要とは限らず、どんな作者が、どういう主人公をたてて、視点はだれにあり、そして予想される対象読者はだれなのかを確かめてから、訳語選択や翻訳のアプローチを変える必要があるのです。
別の見方をすれば、まず単語単位のおきかえで処理できないか考え、次に、フレーズごと意味をおきかえる方法、さらに、解説訳の必要性、といった順番で考えるとよいのかもしれませんね。
この日は今年初めての勉強会でしたので、会場にしている川越の絵本カフェ「イングリッシュブルーベル」( Ehon Cafe - English Bluebell - )さんで、そのまま新年会に突入。おいしい食事とお酒、楽しいおしゃべりで締めました。
新メンバーも加わりましたし、今年もがんばりましょう。
(M.H.)