月曜日の翻訳勉強会で、次のようなせりふが話題になりました。
'No, there's no one. It's just me. I'm all alone now.'
さて、どう訳すか?
いくつか試訳を。
「ええ、あたしだけですよ。あたしひとり。今は天涯孤独の身」
(70歳、女性、気が強い。面倒見がよさそう?)
「いいや、だれもいやしねえ。おれだけさ。もう、おれひとりなんだ」
(60歳、男性、人生に疲れてる。さみしい。)
「うん、みんないなくなっちゃった。もう、ひとりぼっち……」
(7歳、男性、さみしくて心細くて……。)
「そう、だれもいない。この身ひとつ。今はもう、わたしひとり……」
(35歳、女性、ひとりごと。ちょっと自分に酔ってる?)
'No, there's no one. It's just me. I'm all alone now.'
まあ、妄想みたいなものですが。
ただ、ことほど左様に英語という言語はニュートラルで、環境に依存している言語だということがよくわかります。今回のテキストでは、主人公は七歳の少年なので、それなりに考えて訳すわけですが、それでも、そもそも七歳の男の子がこんなこと考えるか、という文も出てきたり、大人になっての回想がどこか入り混じっているような雰囲気もあり、訳者の処理によって作品の印象がかなり変わる作品だと思います。
街で他人の会話に耳を傾けていると、小学生でもずいぶんしっかりとした言葉を使っていると思うこともあれば、大の大人がそんな喋り方しかできないのか、と思うこともあります。七歳くらいだと個人差も、いや、いくつになっても話す言葉は個人差がそうとうあって、本をよく読む人とそうでない人ではかなり口にする言葉も変わってくるでしょう。
こういう時、英語はずるいな、と思います。でもしかたない。なんとかしないと。これはセリフの処理に限ったことではなく、地の文全体にも、通奏低音のようなテキストの声があって、それをくみとり、一定のトーンで語りなおす(これがたぶんいちばんむずかしい)のが翻訳なのだと思います。
今回のテキストは、どうもその日本語に語りなおす時の選択の幅が広い、つまり、訳者の裁量ですごく印象が変わる作品のように思います。ただ、ひとつ言えるのは、できれば上にあげたような年齢・性別・職業・身分・性格などによるせりふのパターンを頭のどこかに想定しておいて、そこから選ぶ意識(あくまで意識ですが)が必要なんじゃないでしょうか。そうすれば、なんとなく訳す、ということを防げます。
まあ、わたしはどちらかというと固めになるのがいつものことですが、勉強会の皆さんは、それぞれの解釈や好みで微妙にタッチが変わっていて、それもまたおもしろい。
(会場にしている川越の絵本カフェ、「イングリッシュブルーベル」さんの入口。)
(M.H.)