翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム「再」再録「原田勝の部屋」 第14回 「です・ます」調のこと

★この作品は、章が変わるごとに、老いた女性の語り手の文を「です・ます」調で、十代の男の子が語り手の文を「だ・である」調で処理するという、とてもやりがいのある翻訳作業でした。こういうの、じつは、けっこう好きです。うまく行くと、文章に味わいが加わり、かつ、それぞれの人物がくっきりと浮かびあがります。(2017年08月05日「再」再録)★

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  この回でとりあげた『二つの旅の終わりに』。原題は"Postcards From No Man's Land"です。"No Man's Land"というのは、戦場で敵味方がにらみあっている時に生じる、その間に帯状に伸びる人のいない地帯のこと。作者のチェンバーズさんにも、このタイトルの意味を問い合わせたりして、いろいろ編集者さんと考えたのですが、結局、直訳とはまったく異なる邦題になりました。欧米には日本の官製はがきのようなものがないらしくて、英語のpostcardは、ふつう絵葉書のことを指すので、「葉書」とすると印象が変わってしまう、ということも考慮しました。

二つの旅の終わりに

二つの旅の終わりに

 

 

Postcards From No Man's Land (Definitions Series) (The Dance Sequence)

Postcards From No Man's Land (Definitions Series) (The Dance Sequence)

 

 

 みなさん、前回の宿題、やってありますか? 

 では、どうぞ。

ーーーーーー

第14回 「です・ます」調のこと

(2008年12月8日掲載、2015年04月16日再録)

 

さて、宿題の答えは?

 まずは先週の宿題の答えあわせです。

  会話のせりふをもとに、年齢・性別などの人物像を想像してください、という宿題でしたが、正解は「十代のゲイの少年」でした。

 え? それは反則だろうって? すみません。じつはこの宿題について、メールで答えを寄せてくれた友人が二人いるのですが、一人は「高校生くらいのちょっとカッコイイ(男っぽい)女の子」という、訳者としてはしめしめ、という答えを、もう一人は作品を予想し、内容をネットで調べるという高等戦術を駆使して、ズバリ正解を寄せてくれました。

 この作品は『二つの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ作、徳間書店)というヤングアダルト向けの小説で、イギリスのカーネギー賞受賞作品であり、また原作者のチェンバーズさんは子どもの本のノーベル賞とも言われるアンデルセン賞を受賞している作家であり編集者でもあります。

 宿題のネタにした登場人物は、「トン」という名のオランダ人のゲイの少年で、主人公のイギリス人少年ジェイコブに淡い恋心を抱きます。ジェイコブにはそっちの趣味はないのですが、引用した初対面の場面では、トンのことを女性だと信じているので、ドキドキしながら、なんとかもう一度会えないものかと思ったりもします。その後どうなったかは、ぜひ作品を読んでいただきたいと思いますが、トンはこのあとも重要な脇役として最後まで活躍し、読者の人気が高いキャラクターでもあります。

 なぜこの場面をとりあげたかと言うと、英語の会話では言葉づかいにほとんど男女差がないので、主人公は相手を少女だと思いこみ、かつ、読者もそう思わされる場面だからです。さらに作者は、トンがじつは男だと判明するまで、地の文でもジェイコブの視点で「she」を使っています。そうして、別れ際にショッキングなことがあって、ジェイコブは「うわっ、男かよ!」と驚くと同時に、読者もそこで驚くという仕掛けなのです。

 ところが日本語では、ある程度の長さの会話を表現しようとすれば、男女差がおのずと言葉の端々に、とくに文末に現われてしまいます。現実の若者同士の会話ではそうでもありませんが、活字にしようとすると、文末を書き分けないわけにはいきません。この場面では、女性のせりふといってもぎりぎり通るけれど、あとで読み返してみると、じつは、いわゆる女言葉は使っていないし、なるほど男の子のしゃべり方にもとれるという線を綱渡りしなければなりませんでした。そして結果として読者が、ジェイコブと同じように、相手は「ボーイッシュな美形の女の子」だと思いこんでくれたなら、「しめしめ」なのです。

 これは大変でしたが、とても面白い作業でしたし、同時に、わたしたちがふだんから会話部分における登場人物の造形を、どれほど文末処理に負っているかを身に染みて感じた箇所でもあります。

 

「です・ます」調と「だ・である」調

 以上は前回からの続きで、会話による登場人物の描き分けの問題でしたが、では、地の文はどうでしょうか。選択肢としては、いわゆる「です・ます」調と「だ・である」調があるわけですが、小説の場合、地の文が作者の声である場合、です・ます調で書くと客観性や中立性が失われ、うるさい感じがして難しいように思います。もっとも、幼年向けの物語や絵本では、またちょっと話がちがって、です・ます調の方が、作者の「語り」をリズムよく表現できます。

 しかし、地の文が三人称で書かれていても、視点が登場人物のものである場合、その人物像にふさわしければ、です・ます調を選択することができるし、そうすべき場合もあるでしょう。

 です・ます調の名訳と言えば、カズオ・イシグロ作、土屋政雄訳の『日の名残り』があります。主人公であり、また語り手であるスティーブンスの独特の一人称の語りが続くのですが、まあ、これは地の文と言うより、せりふと言った方がよく、主人公の職業が執事ということで、訳者がです・ます調を選択したのは当然かもしれません。

 この翻訳を読んだ時、わたしは、それこそぶっとんだような衝撃を受けました。柔らかい日本語で、なおかつ原作のトーンをよく伝え、執事という特殊な職業に就いている主人公の微妙な心理や言動を活写しているのです。これは神業だ、と思いました。このコラムをお読みの方で、もし未読の方がいらっしゃるのなら、ぜひ読んでみてください。現代の翻訳作品の一つの頂点であることはまちがいないでしょうし、文学の翻訳について、わたしごときが千万の言葉を費やすよりも、これ一冊で受ける刺激がどれほど大きいことか。

 で、それ以来、かどうかわかりませんが、わたしも心のどこかで、いつか、です・ます調の翻訳をしてみたいと思っていました。それが実現したのも、やはり、この『二つの旅の終わりに』です。

 この作品は、現代のイギリス人高校生ジェイコブが主人公の章と、ヘールトラウという死期の近いオランダ人女性の手記の体裁をとった章を交互に配置して構成されています。時代も、国籍も、性別も異なる主人公二人の個性を際立たせるために、わたしはすぐにヘールトラウの章をです・ます調で翻訳することに決めました。それぞれの章の冒頭をちょっと出してみましょう。

 

  Not knowing his way around, he set off back the way he had come. But changed his mind about picking up a tram to the railway station, not yet ready to return to Haarlem, and kept on walking along the canal, the Prinsengracht, still too jangled by what he had just seen to notice where he was and too preoccupied to wonder where he was going.

 

 どこにいるのかわからなくなって、彼はもと来た道を引き返し始めた。しかしまだアムステルダムからハールレムにもどる気にはなれず、中央駅へ行く路面電車に乗るのはやめ、プリンセン運河沿いを歩き続けた。今見てきたばかりの光景にいらだちがおさまらぬまま、自分がどこにいるのかわからず、どこへ向かっているのか考える余裕もなかった。

                     (第1章 ジェイコブ(1))

 

  Parachutes falling from a clear blue sky like confetti. My most vivid memory of his arrival.
  Sunday 17 September 1944.

  ‘Good flying weather,’ Father had said. ‘We must expect more raids.’

 澄みきった青空から、紙吹雪のように落下傘が舞いおりていました。彼の到着を告げる、わたしの一番あざやかな記憶です。

 一九四四年九月十七日、日曜日。

「出撃にはもってこいの天候だな」その朝、父さんは言いました。「空襲が激しくなるぞ」

                (第2章 ヘールトラウ(1))

 英語では、ジェイコブの章が視点はジェイコブで記述は三人称、ヘールトラウの章は手記ですから、視点も記述も一人称です。さらに、ジェイコブは男性、ヘールトラウは女性です。こうした前提を考えての訳し分けですが、違いを際立たせるという所期の目的は達成できたのではないかと思っています。聞くところによると、読者の中には、とくにヘールトラウの章の先が気になって、ジェイコブの章を飛ばして読んだ方もいらっしゃったようです。

 

決めるのは訳者だ

 というわけで、文末の処理に関して思いついたことを二回にわたって記してみましたが、一番大切なことは、さまざまなバリエーションの中からどれが最適か、考えて決めるのは訳者だ、ということです。

「そうです」なのか「そうだ」なのか……。「そうなのよ」か「そうなんだ」か……。「ええ」か「うん」か「はい」か「おう」か……。英語では、”Yes.”としか書いてないかもしれないのです。やりすぎてはいけませんが、でも、訳者は、作品全体のトーンや前後の関係、英語と日本語のそれぞれの特徴や限界などをバランスよく考慮に入れ、節度をもって、なおかつ登場人物のキャラクターをしっかりと読者に伝える努力を怠ってはならないのだと、自戒をこめて言っておきます。

 え? なになに? どうしてこのコラムは「です・ます」調で書いてるのか、ですって? 理由はいろいろあるのですが、まず第一に、自然と語りかける口調になるので、読者の皆さんが親近感を覚えてくれるのではないかと考えたからです。そして、更新は月に一度程度ですから、時間をおいて新しい回を読んでいただいた時、です・ます調の方が、一月ぶりの懐かしさを感じていただけるのではないかと、勝手に考えたからでもあります。それに不思議と、書いてるわたしも優しい気持ちになれますし。

 文末のわずか数文字のことですが、あなどれませんね、言葉は。では、また。(M.H.)