翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム「再」再録「原田勝の部屋」 第33回 翻訳は芸術か? (その1)

★大上段にふりかぶったタイトルですが、一度は考えておくべき問題ではないかと思います。「文芸翻訳」は、「文学翻訳」と言ってもいいかもしれません。自意識過剰だと言われるかもしれませんが、フィクションを翻訳する時、当然、自分は文学に携わっているのだ、という意識が不可欠だと思います。(2017年08月23日「再」再録)★

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 わたしが翻訳を学びはじめた1990年前後は、まだ、文芸翻訳という言葉が多く使われていて、文学の翻訳が強く意識されていたように思いますし、自分でも、純文学、推理、SF、児童書など、ジャンルはいろいろあっても、文学を翻訳するのが翻訳だと思っていました。ストーリーがあって、登場人物がいろいろいて、事件が起こり、泣いたり、笑ったり、人が死んだりして、わくわく、どきどき、はらはらするものを翻訳したいと思っていました。皆さんはどうでしょうか?

 

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 資料をほじくりかえしていたら、1988年10月期のバベル翻訳学院の講座予定が見つかりました。いや、錚々たる講師陣です。今、この方々に教えていただけるのなら、毎日でも通いたい。

 わたしは仕事の関係で午前中の講座しかとれず、金原先生と厚木先生に教えていただきました。夜の講座がとれていたら、また、ちがった分野に進んでいたのかもしれないと思う一方、結局、今のジャンルに落ち着いていたような気もします。

 

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第33回 翻訳は芸術か? (その1)

(2011年9月26日掲載、2015年06月27日再録)

 

 二十年近く前、神田にあった翻訳学校に通っていた頃のことです。週に一度の授業が終わり、昼食をとるために一人で近くの喫茶店に入りました。するとそこに、たまたま、その翻訳学校の事務局の男性がいらっしゃいました。その方が店を出る時だったと思うのですが、わたしにむかって、いきなり、「原田さん、がんばってくださいね。皆さんは芸術家の卵なんですから」と、おっしゃったのです。芸術家の卵? あまりに唐突な言葉に、その場はもごもごと挨拶をして終わったと記憶しています。

 しかしその後、この一言は折りにふれて思いだされる言葉となりました。果たして、翻訳は芸術なのだろうか? 翻訳家は芸術家なのか? じゃ、自分は芸術家を目指しているのか? そんな自覚はないぞ。うーん、でも、ちょっと格好いいかも……。などと、想像はあらぬ方へ羽ばたいていきます。

 

文芸の芸は、芸術の芸

 ひと昔前、とくに文学作品については、今ほど原文に忠実な翻訳が求められず、抄訳や創作訳もさかんに行なわれていました。また、辞書や参考書も整っておらず、調べものにも限界があったでしょう。そのころの翻訳者は、たしかに想像力や創造力を存分に発揮する「芸術家」であったのかもしれません。しかし、原文からの逸脱がしにくくなっている今の翻訳はどうでしょうか?

 ちなみに、手元の国語大辞典を調べてみると、「芸術」の項には、「鑑賞の対象となるものを人為的に創造する技術。空間芸術(建築・工芸・絵画)、時間芸術(音楽・文芸)、総合芸術(オペラ・舞踊・演劇・映画)など」とあります。「翻訳」というジャンルは直接謳われていません。

 でも、文芸が「芸術」であるなら、技術翻訳はさておき、文芸翻訳、すなわち小説・ノンフィクション・絵本・戯曲・詩など、文学の翻訳は「鑑賞の対象となる芸術作品」でなければならないはずです。原作の読者が求めるものを、日本の読者も求める権利があるわけで、翻訳された作品にも、芸術としての表現力や創造性が息づいていなければならないはずです。となると、原作の芸術性(原作者の創造性)と翻訳作品の芸術性(翻訳者の創造性)はどういう関係にあるのでしょうか?

 

翻訳者は演奏者?

 上記の辞書の記述にあるように、わたしたち翻訳者が、「鑑賞の対象となるものを人為的に創造」しているのかと考えると、翻訳は「創造」とは言えないように思います。そこで、別の辞書を調べてみると、「芸術家」の項に、「芸術作品を創造し、また、表現する人。詩人、美術家、音楽家の類。」とありました。たしかに、音楽家に含まれるはずの演奏者は、芸術家と呼んでいいはずです。少なくとも、プロの、あるいは、一定水準以上の演奏者は芸術家でしょう。ピアニストやヴァイオリニストがいて初めて、モーツアルトやベートーベンの作品は芸術として成立するのですから。

 そう考えると、翻訳者だって、創造する人ではないかもしれませんが、「表現する人」であることはまちがいありません。音楽なら聴衆の言語を問わず、ピアノのために書かれた曲は、世界中どこへ行ってもピアノで演奏できますが、文学には言語という壁があります。ですから、ある言語で書かれた作品を、別の言語に翻訳するという行為は、言ってみれば、ピアノ曲をヴァイオリンで弾いてみせるようなことなのかもしれません。

 この演奏者と翻訳者、あるいは、音楽と文芸翻訳との対比は面白く、いろいろと興味深い類似性が浮かびあがってきます。

 演奏者と翻訳者の共通点をもう少し考えてみましょう。まず、両者ともに、演奏者には楽譜、翻訳者には原作という原典があります。そして、どちらも、それを「再現」することで作品を成立させます。演奏者は、作曲家の頭の中の旋律や和音を紙の上に定着させた楽譜という媒体を読み解き、楽器という道具で再現して、できることなら、作曲家が意図した芸術性まで蘇らせ、聴衆の心を動かすことをめざします。同様に翻訳者は、原作者の頭の中の物語や概念を言語で記したテキストを読み解いた上で、別の言語という道具を用いて再現し、原作者が意図した感動を読者に伝え、あるいは思索を促すことをめざすのです。

 

表現者として

 当然、演奏者にも翻訳者にも、再現のためのスキルが要求され、わたしたちはそれを習得するために、ピアノ教室に通ったり、翻訳学校に通ったりします。しかし、ピアノ教室に通う人は、全員がプロの演奏者をめざしているわけではありません。楽器を演奏することが楽しいから技術の向上をめざす人もいて、そこには純粋に表現する喜びがあります。一方、翻訳学校に通う人は大半がプロをめざしているとは思いますが、やはり翻訳のプロセスそのものに、ピアノを弾くことに通じる喜びを感じるはずです。最初は感じていなかったとしても、いずれ見出すことでしょう。いや、見出せない人は、文学の翻訳にはむいていないのです。ピアノを弾くことそのものに喜びを感じないピアニストなんていないはずですから。

 自分が奏でる楽器から美しいメロディが流れる時の喜びに似て、自分が翻訳した文章で心が動いた時、あるいは情景が浮かびあがってきた時、そこには表現者としての純粋な喜びがあります。それが自己満足なのか、本当に読者の心をも動かす文章となっているかはさておき、鍵盤に指を走らせるのが楽しいように、言葉を操ることは、それ自体がとても楽しいことなのです。むろん、その先には、ピアニストをめざす人たちが練習を重ねるように、翻訳を学ぶ者は作品の出版をめざしてスキルを磨く段階があります。しかし、翻訳者は常に、言葉を操る楽しさ、表現する喜びを忘れてはならないのではないでしょうか。

 なぜ、このことを強調するかというと、翻訳、あるいは翻訳学習に関する論説を見ると、翻訳のスキルや、翻訳という仕事について書かれたものはたくさんあるのに、翻訳を表現活動としてとらえたものが少ないように思うからです。もちろん、スキルや知識は大切です。自分の訳書が書店にならべば誇らしく感じ、その収入で暮らしていければありがたいことですから、そのためのノウハウも大事でしょう。しかし、なによりもまず、翻訳が表現活動であることを認識すべきだと思うのです。誤解を恐れずに言えば、ピアニストが演奏に自身の解釈や感情をこめるように、翻訳は自身の原典解釈を表現する場でもあるのです。

 

訳文を「作品」として見る

 また、文学の翻訳が芸術であるならば、翻訳者は自らの訳文を人の鑑賞を受ける「作品」とはっきり認識すべきでしょう。翻訳を作業や技術に分解してとらえ、訳文を単なるアウトプットと考えていては、文学の翻訳はできないのではないでしょうか。実際の翻訳作業においては、訳し漏れや誤訳のチェックが必要なのは当然ですが、常に訳文全体を一つの「作品」として、読者の鑑賞に耐えうるかという視点で見る姿勢が欠かせないと思います。

 そういう姿勢で翻訳にあたれば、それが結局、訳語の選択や文末の処理など、ディテールを詰める際のより良い判断につながり、ひいては作品全体の完成度アップにつながるでしょう。さらに、リーディングでの原作評価や、編集者とのやりとりなど、出版に関わる翻訳をとりまく活動においても、表現者としての視点や、どういう作品に自分は関わりたいのかという意思が、成功の決め手になることもあるはずです。なにも、芸術家を気どれ、と言っているわけではありませんが、翻訳者には、「表現者」として「作品」を生みだそうとする気概が必要だと思うのです。

 え? なんだか、空回りしそうでこわい? たしかに、わたしも今まで、あちこちで空回りしてきたように思います。でも、こういう気構えがないと、骨のない訳文しか生まれてこないのではないでしょうか。空回り、いいじゃないですか。回ってないよりずっとましです。

 紙面が尽きました。次回も、引き続きこのお題で書いてみます。

(M.H.)