翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム「再」再録「原田勝の部屋」 第39回 "Little Princess"

★『小公女』大好きでした。この回でふれた古典児童書を読む会は今も続いていて、次回の課題本は『若草物語』です。4人の中では、ジョーが一番好きでした。『若草物語』もいろいろな訳者が訳していて、その違いも楽しむことができます。ただ、今の子どもたちが手にとってくれているのかどうか……。(2017年08月31日「再」再録)★

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『小公女』の話です。写真は左から川端康成・野上彰訳、原作、そして、高楼方子訳。

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 この文で書いたように、訳者が物語を「語る」ように訳すことは、今はなかなかむずかしいのですが、意識だけでも、そういうつもりで翻訳にとりくみたいものです。

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第39回 "Little Princess"

(2012年4月22日掲載、2015年07月17日再録)

 

 先日、「古典児童書を読む会」という読書会に出席してきました。初会合だったので、参加者が自己紹介を兼ね、それぞれおすすめの古典児童書を紹介したのですが、わたしは小学生のころの愛読書、フランシス・ホジソン・バーネットの『小公女』と、アーサー・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』をもっていきました。

『ツバメ号……』は、数年前に思い立って原書で読んでみたのですが、その時、昔、神宮輝夫さんの訳で読んだ時の感覚が、まったく変わらずに蘇ってきたことに驚きました。30年以上前に翻訳で読んだ物語が、英語で読みかえしてみて、ああ、そうそう、そうだった、と思えるのです。読書体験というのは、言語体験であると同時に、人物や風景はもちろん、ストーリーまでもが視覚的なものとして、あるいは言語とは別のなにかとして記憶に刻まれる現象なのかもしれません。

 

川端康成訳

『小公女』も、やはり小学生のころ、大好きで何度も読みかえした作品ですが、大人になってからは読んでいませんでした。子どもの時に読んだ版は、当時、各出版社が競うように出していた、少年少女世界名作全集に収録されていたものです。どこの出版社のものか忘れましたが、親がシリーズ全巻を注文してくれ、毎月の配本を楽しみに待っていたのを記憶しています。『小公女』は『小公子』と合本になっていて、どちらも翻訳は川端康成だったと記憶していたので、探してみると、角川文庫の『小公女』(川端康成・野上彰訳、昭和33年初版)を入手することができました。

 さっそく読んでみましたが、これが素晴らしい。子どものころに読んだのは抄訳だった可能性が高いのですが、やはり、あのころ味わった感動が蘇ってきて、なんとも言えない懐かしい気持ちになりました。「ふうがわり」で「灰色がかった緑の瞳」の主人公セーラ、手のひらを返したように態度を変えるミンチン先生、気のいいアーメンガード、ターバンを巻いたインド人のラム・ダス、女中のベッキー……、登場人物は記憶の底に鮮明に刻まれていました。そしてストーリーはこれぞ物語の王道、セーラはつらい境遇を想像力を駆使してプリンセスのように気高く生きぬき、最後は水戸黄門的大逆転で正義が勝つのです。

 むろん、原作者バーネットの力が大きいのでしょうが、翻訳もいい。50年以上前の翻訳なのに、思ったほど古びていないし、子どもの読者を想定しているためか、漢字が少なく、当然ルビも少なくて、ページをひらいたとたん柔らかな印象を受けます。なにより日本語そのものに語りのリズムがあり、文学者が翻訳するメリットが存分に感じられるのです。川端康成と野上彰がどういう役割分担で訳したのかわかりませんが、英語を日本語に移すだけでなく、明らかに、物語を語ろう、主人公を動かそう、という気持ちが文章の端々に感じられます。今思えば、あの全集に収録されていた作品に、ほとんどはずれはありませんでした。『三銃士』、『モンテクリスト伯』、『ガリバー旅行記』、『十五少年漂流記』などなど、おもしろいという印象しか残っていません。おそらくどれも抄訳で、ストーリー展開中心の翻訳だったのでしょうが、そうであるが故に、原文から自由になった日本語の息づかいのようなものがあったのだと想像します。そして、今回読みなおした『小公女』は、完訳であるのに、日本語の語りが強く感じられ、物語を読んでいるという充実感がありました。

 

新訳との比較

『小公女』の翻訳は、川端康成だけでなく、文学者で言えば伊藤整や菊池寛も訳しているようですし、名のある翻訳家では、刈田元司さんや坂崎麻子さんも手がけていらっしゃいます。そして、昨年2011年には、児童文学者の高楼方子(たかどの・ほうこ)さんの完訳版が福音館書店より出版されました。やわらかくて流れるような川端・野上訳と比べ、高楼さんの訳文はニュートラルですが、やや硬質に感じられます。

 高楼さんのオリジナル作品を読んだことがないので、どこまでが高楼さんの文体なのかはわかりません。それでも、川端・野上訳の文体のほうが柔らかくて、語り手の声を感じます。高楼さんの訳文は物語を「書いている」ように感じるのですが、川端・野上の訳文は「語っている」ように思えました。

 作品の冒頭を抜粋、比較してみましょう。

   Once on a dark winter’s day, when the yellow fog hung so thick and heavy in the streets of London that the lamps were lighted and the shop windows blazed with gas as they do at night, an odd-looking little girl sat in a cab with her father, and was driven rather slowly through the big thoroughfares.

 くらい冬のある日、ロンドンの町々はあつい霧がおもくたれこめて、夜のようにあかりがともり、店やのショウ・ウィンドは、ガス燈の光できらきらかがやいていた。そのとき、大通りをゆっくりかけていく馬車のなかに、おとうさんにつれられた、ちょっとふうがわりな少女があった。(川端・野上訳)

 暗い冬の日でした。どんよりした黄色い霧が重くたちこめたロンドンの街は、街灯も、店々のウィンドウも、夜のように灯りがともされ、ガスの光にぼうっと輝いていました。
 そんな街なかの大通りを、いっぷう変わった雰囲気の少女が父親と辻馬車に乗り、ゆっくりと通り過ぎていきました。…… (高楼訳)

 まあ、これだけで比較するのは無理があるのですが、それでも特徴は出ていると思います。川端・野上訳のほうがなめらかな感じがしませんか? それは明らかに、漢字・漢語の使用が少ないせいで、ぬきだしてみると、「くらい・暗い」、「おもく・重く」、「あかり・灯り」、「かがやいて・輝いて」、「ふうがわり・変わった雰囲気」、「おとうさん・父親」、「かけていく・通り過ぎていき」、となります。

 ちょっと考えると、50年も前の翻訳ならば、今より漢字や漢語の使用が多いのではないかと思うでしょうが、むしろ逆の現象が起きています。ここだけでなく、全編を通じて高楼訳のほうが漢字・漢語が多く、それが硬質な印象を生んでいますし、また、原作の英語のなまりを意識して、女中のベッキーや乞食の少女の言葉づかいが、川端・野上訳よりもある意味古風なものになっています。どちらが好きかと言われれば、迷わず野上・川端訳を推しますが、この評価には、わたし自身の幸福な読書体験の重みが上乗せされていますから、趣味の問題と言っていいでしょう。読書会では、高楼さんの翻訳を絶賛されている方もいらっしゃいました。

 

語り手と主人公の親密さ

 上に引用した部分で、とくに、いいなあ、と思うのは、野上・川端訳の「きらきら」と「おとうさん」、そして「ふうがわり」です。長い物語(角川文庫版で290ページ、福音館書店版で377ページ)の冒頭ですが、こうした言葉づかいは、幼い読者を一気に物語世界に引きずりこむ道具立てとして、きわめて重要です。じつは、わたしは、この本で「ふうがわり」という言葉を憶えました。じゃあ、おまえが訳したら、こういう訳ができるのか、と問われれば、はなはだ自信がありません。とくに「おとうさん」は難しい。「おとうさん」という言葉を、こうした客観視線の文章内で用いるには勇気がいります。わたしもおそらく、高楼さんと同じように「父親」とするでしょう。

 野上・川端訳では、この「おとうさん」に代表される語り手と主人公の不思議な親密さが、文章のはしばしに感じられ、読者を物語の中に引きこむ原動力になっているのです。それは時に、文法的に不自然な助詞の使い方や、ねじれた主語述語関係を生んだりもしているのですが、物語に入りこんでしまえば、それはまた、ある種心地のよい違和感でもあります。そして、この親密さは、主人公の寝起きする屋根裏部屋の秘密めいた雰囲気によくマッチしていると言えるでしょう。

 しかし、訳者として原書のテキストを前にした時、こうした語り手のメンタリティで文章を綴っていくのは大変難しいことです。語り手として「書く」ことはかろうじてできても、本当に「語る」のは難しい。過剰な訳文や、はしょった訳文に堕すことなく、読者に語りかけていくのは至難の業で、川端・野上訳はそのぎりぎりの線を巧みに渡っているように思います。

 

「語る」ことを忘れずに

 ですが、今、この時代にこれだけの名作を再訳するとなると、いくつもの制約が課せられます。原書は簡単に手に入り、またそれを読むことのできる人も増え、外国の文化や風習についても情報があふれている時代ですから、原作のテキストを外れることは許されません。それでいて、なお、日本語の語りのリズムを確立していくのは本当に大変な作業でしょう。高楼さんもご苦労されたのではないかと推察しますし、また、現代の編集者が川端・野上訳を見たら、いろいろなところに赤を入れたくなるはずです。それでも、物語の翻訳にあたって、訳者は「語る」姿勢を忘れてはならないと、今回、改めて思いました。

 いずれにせよ、未読の方は、『小公女』、ぜひ読んでみてください。素晴らしい作品です。翻訳を比べてみるのもおもしろいでしょう。何より、セーラがとても魅力的です。なんたって、わたしの初恋の人ですから。

(M.H.)