翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム再録「原田勝の部屋」 第58回 文体研究(4) ── ピエロを探せ

★登場人物のバリエーションには、やはり作者の意図がこめられているはずです。中でも、三枚目の脇役は、そうとわかってせりふの処理をしないといけません。浮いちゃいけないけれど、目立たなきゃいけない。(2017年09月18日「再」再録)★

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 この回でとりあげた『王国の鍵2 地の底の火曜日』の表紙。革装風のカバーをはずすと、表紙は黄色です。デザインは永松大剛さん(BUFFALO.GYM)。このシリーズは、カバーをはずすと明るい色が出てきます。大好きなデザインです。 

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 こちらは原書。二種類あります。

Grim Tuesday (The Keys to the Kingdom) Grim Tuesday (The Keys to the Kingdom, Book 2)

 

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第58回 文体研究(4) ── ピエロを探せ

(2014年7月14日掲載、2015年09月18日再録)

 

 今回は、作家・作品別の文体研究ではなく、「ピエロ的キャラクター」を糸口に、翻訳の際の意識について書いてみたいと思います。

 前回、『ブック・オヴ・ザ・ダンカウ』の文体をとりあげた際、登場人物のイタチのジョン・ウェスリーのべらんめえ調のせりふについて言及しました。この小説は、キリスト教の宗教観を背景に、動物を主人公にして善と悪の戦いを描く寓話的な作品なのですが、時おり、あのイタチのせりふのように、息をぬく場面が出てきて、それが、観念的な記述や壮絶な戦いの描写とのコントラストになって、作品のバランスを整えています。

 文体とひと口に言っても、第53回で書いたように、さまざまな切り口での論じ方がありますし、そもそも、ひとつの作品が、全編同じトーンで書かれていたら、それほど退屈な作品もないでしょう。地の文とせりふで調子は変わりますし、登場人物のキャラクターのちがいや、場面のちがいによっても変化が生まれます。作者は、上述のイタチのようなキャラクターを意図的に設定し、そいつが登場する場面は、それだけで自然に読者も気をゆるめ、笑いを期待してくれることをねらっているのです。そして、そんなやつが、一転、びしっとまじめなことを言ったり、命をかけて戦ったりすれば、読者の心をわしづかみですからね。

 小説では、こういう、ピエロ的キャラクターが設定されていることは少なくありませんし、読んでいれば、否応なくそのことに気づくはずです。訳者として大切なのは、そのピエロ的役割を、訳文でも存分に発揮させることです。

 

イタチのジョン・ウェスリー──『ザ・ブック・オブ・ザ・ダンカウ』

 前回の引用部分を、再度、引用してみましょう。

    “Double-u’s is not Double-u’s on account of their ears. Is a Mouse John mourns, you cut-cackle! John can go to the Netherworld as any Rooster can ─ and he a sinner. Ha! And ha, ha! to you!”

    “The Book of the Dun Cow” (by Walter Wangerin, JR., 1978, Harper & Row paperback edition, 1989, p.240)

 

「イタチのジョン様は、耳があるからジョン様ってわけじゃねえ。ジョン・ウェスリーが嘆き悲しんでいるのはネズミのためだってことがわからねえのか、このニワトリ野郎め! ジョン様にだって地獄へ行くことくらいできらあ。なにしろオンドリにできるってんだろう──、しかも、そいつは罪人だってえじゃねえか。フン! ちゃんちゃらおかしいぜ!」

  『ザ・ブック・オブ・ザ・ダンカウ』
  (ウォルター・ワンゲリン・ジュニア作、2002年、いのちのことば社フォレストブック、p.365)

 たとえば、これは、こんな風に訳すこともできます。

「イタチのジョン・ウェスリーは、耳があるからジョン・ウェスリーというわけではない。わたしが嘆き悲しんでいるのは、あるネズミのためなのだ。クワックワッ鳴くのはやめないか! わたしだって黄泉の国へ行くことはできる。オンドリにさえ──しかも罪人のオンドリにさえ行けるというのだから。ハッ! とんだお笑いぐさだ!」

 読者の皆さんには文脈がわからないので、良し悪しの判断はできないと思いますが、まあ、これはこれで悪くない気がします。いえ、こちらのほうが、原文に忠実とも言えます。でも、今ひとつ、パンチに欠けます。実際の訳文のように、イタチを「江戸っ子」にしたのは成功だったと思うのですが、いかがでしょう。

 

スージー・トルコ・ブルー──『王国の鍵』

 ガース・ニクスのファンタジー・シリーズ、『王国の鍵』(“The Keys to the Kingdom”, by Girth Nix)の中には、スージーという女の子のキャラクターが登場します。この子は、「ハウス」というパラレルワールドの中で、主人公のアーサーを助けてくれるのですが、いつも元気いっぱいで、反骨心旺盛、やんちゃ坊主みたいなのに、アーサーにはちょっぴり恋心を抱く、という、読者にもファンの多いキャラです。この子が出てくると、とたんにページが明るくなります。

    “You said it,” said Suzy. “Nice to meet you, Japeth. Don’t worry. Arthur’s smarter than he looks. I reckon he’ll see you right. Tuesday’ll be a pushover compared to Monday.”
     “Really?” asked Japeth.
     “Nah, don’t be soft,” said Suzy. “I just said that to cheer you up. Shouldn’t have asked. Now, Artie, we need to . . .”

     “The Keys to the Kingdom ─ Grim Tuesday” (by Girth Nix, 2004, Scholastic Press, p.131-132)

 

「よく言った」スージーが割って入った。「じゃあ、またね、ジェイペス。心配いらないよ。アーサーはこう見えて頭が切れるんだ。悪いようにはしないと思うな。マンデーのときにくらべれば、チューズデーなんて朝飯前さ」
「そうなんですか?」
「んなわけないじゃん。あんた、人がいいねえ。元気づけようと思って言っただけさ。だめだよ、本気にしちゃ。さあ、アーティー、そろそろ……」

   『王国の鍵2─地の底の火曜日』
   (ガース・ニクス作、2009年、主婦の友社、p.150)

 

 いやあ、この部分はスージーのキャラが全開です。「んなわけないじゃん。あんた、人がいいねえ」ですから。イタチのジョンが江戸っ子なら、スージーは「浜っ子」、横浜弁ですね。まあ、わたしも神奈川生まれですから、「○○じゃん」はふつうに使ってました。訳文に使う権利(?)はあるというものです。

 それはさておき、この二例のように、ある意味、日本語をくずすという操作を適度に行なうには、どういう発想が必要なのでしょうか? たしかに、どちらも原文の英語がくずれていますから、必然、そのくずれを日本語にどう移そうか、と考えます。ですが、同時に、キャラクターの存在意義、物語の中での役割についての意識を訳者がもっていることが、そのくずし方を適切なものにするために必要だと思うのです。

 

語り口、背景、登場人物のイメージをもつ

 くずした原文をくずした日本語として再現するのも大事ですが、それより、作者のねらいである、場面を明るくコミカルにする目的を果たすことのほうが、もっと大切なはずです。今回は、江戸弁や横浜弁を使った特徴的な部分をとりあげていますが、むろん、無理に方言を使う必要はありません。

 翻訳という行為は、時に、言葉レベルでの置き換えをめざして、機械的作業に堕してしまう危険を伴います。しかし、感情表現やせりふは、原文の意味だけを移しても、作者のねらいは再現できません。イタチのジョンや、おてんばなスージーが、読者の頭の中で生き生きと動きだすためには、訳者の頭の中に人物像を明確に設定し、それにふさわしい動き方をさせ、言葉をしゃべらせることが大切なのです。つまり、テキストレベルの置き換えをする前に、こいつは「ピエロ的キャラ」だ、と認識していることが肝心なのです。

 あらかじめ認識しておくべきことはほかにもあるでしょう。まず、作品全体のベースとなる語り口に対する意識をもつこと。次に、舞台となる時代や場所、空気感についてのイメージをもつこと。そして、登場人物の外見や性格、物語の構成上の役割を認識することです。ピエロキャラだけでなく、ああ、こいつは徹底したワルだ、この人は良心の塊だ、この子は無垢な心の象徴だ、などということを少し意識するだけで、平板な文章に陥りかけていた訳文が、生き生きとしたものになることがあるはずです。まあ、実際には、こうしたイメージが一部はっきりしないまま翻訳作業に入り、訳していく過程で理解が進んで、人物や情景がしだいに鮮明になっていくことが多いのですが……。中盤まで訳してから、ああ、こいつに「ぼく」は似合わない、「おれ」にしよう、などという修正を加えていくわけですね。

 ともかく、訳文を、単なるテキストレベルの置き換えにしないよう、作品を頭の中に立体的に立ち上げていく意識が肝心です。じつは、読書、そして翻訳というのは、そういった再現過程そのものであるとも言えますし、また、それこそが翻訳の醍醐味なのです。テキストの見ためではなく、こうした、語り口、背景、キャラクター等の「イメージ」こそが、じつは「文体」そのものなのかもしれません。

(M.H.)