翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム「再」再録「原田勝の部屋」 第59回 文体研究(5) ── 『ウェストール短編集』

★さて、文体をとりあげた最後の回ですが、原作者の文体と翻訳者の文体について少しふれています。翻訳者の場合は文体なのか、テクニックなのか、微妙なところですね。さらに、編集者さんの関与のことも……。(2017年09月19日「再」再録)★

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 この回でとりあげたロバート・ウェストールの短編集です。表紙は宮崎駿さん。いいですねえ。イングランドって感じです。 

真夜中の電話 (児童書)

真夜中の電話 (児童書)

 

 ヤングアダルト、いや大人にも読んでほしい、ほんとうに面白い短編集です。これに続いて、野沢佳織さん訳のもう一冊の短編集も出ています。こちらもおすすめ。訳者の趣味の違いも出ていると思います。

遠い日の呼び声: ウェストール短編集 (WESTALL COLLECTION)

遠い日の呼び声: ウェストール短編集 (WESTALL COLLECTION)

 

 

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第59回 文体研究(5) ── 『ウェストール短編集』

(2014年9月6日掲載、2015年09月22日再録)

 

 この8月、わたしの訳書、『ウェストール短編集 真夜中の電話』(徳間書店)が出版されました。今回は、そのウェストールにまつわる話を書いてみます。

 ロバート・ウェストール(1929〜1993)はイギリスの児童文学作家で、わたしが翻訳学校に通っていたころ、講師の金原瑞人先生が、ちょうどご自身が翻訳中だったウェストールの短編「チャス・マッギルの幽霊」(原題 “The Haunting of Chas McGill”、『ブラッカムの爆撃機』(金原瑞人訳、福武書店、1990、岩波書店、2006)所収)を教材にしたことがきっかけで知った作家です。わたしにとっては、アメリカのロバート・コーミアと共に、英米の児童文学・ヤングアダルト文学の面白さ、そして「ハードさ」を教えてくれた大切な作家の一人となりました。

 その後、運よく、ウェストールの『弟の戦争』(原題 “Gulf”、徳間書店、1995)を翻訳する機会に恵まれ、それからほぼ20年、幸いにも、この作品は今も版を重ねて、たくさんの子どもたちに読んでもらっています。そして、再びウェストール作品を翻訳する機会を得たことは、ほんとうにうれしいことでした。

 

訳者のちがいは文体のちがいとなるのか?

 翻訳出版されたウェストールの作品は、この秋刊行予定のもう一冊の短編集、『ウェストール短編集 遠い日の呼び声』(野沢佳織訳、徳間書店)を合わせると、のべ16冊あるのですが、じつは翻訳者は、越智道雄、金原瑞人、坂崎麻子、光野多惠子、小野寺健、野沢佳織(以上、敬称略)とわたしの計7人に及びます。版権の切れた古典ならともかく、すべて初訳であるわりには訳者の数が多いほうでしょう。

 作家ごとに翻訳者を固定すれば、複数の作品に通底しているテーマや作家の意識、作品相互の関連性をすくいとれるはずです。訳文も作品ごとのばらつきが少なくなるでしょう。そうしたこともあって、同じ出版社から出版する場合、一人の作家には一人の訳者というパターンが多くなります。一方で、その訳者の解釈に偏りがあったり、特有の癖があったりすると、その作家の作品すべてにおいて、原作の持ち味が損なわれてしまうかもしれません。最悪の場合、その作家が、日本での正当な評価を受けられないままになってしまう恐れもあります。

 一方で、作品によって訳者を変えると、文体の再現という点で一貫性を失う心配があります。文体の話題を最初にとりあげた第53回で、わたしはこう書きました。「それでもなお、作家の個性のうち、翻訳しても消えなかったものが訳書に現われます。題材やストーリー、構成、登場人物の設定、社会背景など、言語の壁を越えて伝わるものは当然ですが、原作のトーンというか、色というか、作家ごとに異なる表現や小説作法の特徴がにじみでるのです。これを文体と言うかどうかはわかりませんが、翻訳文学のとても不思議で魅力的なところだと思います。」

 じつは、ウェストールの作品は、「題材やストーリー、構成、登場人物の設定、社会背景など、言語の壁を越えて伝わるもの」の割合が、もともと大きいと言えます。ウェストールは、戦争にまつわる話や、ホラー、スリラー系の物語が得意で、作品にはストーリー性がありますし、登場人物は個性的で、時代や社会背景がはっきりしていることが多く、原文に書かれている情報をもれなく訳文に移せば、それなりに文体が安定するように思います。そして、その情報の中には、児童文学にしては容赦のない描写や展開、戦争や社会問題に対する作者の見方、子どもやティーンエイジャー特有の微妙な心の動きなどが含まれていて、言葉づかいというせまい意味での文体以前に、ウェストールが描こうとすることそのものに特徴があり、その特徴は十分に日本の読者にも伝わっていると思います。そして、ウェストール作品を翻訳してきた先輩たちが、みなさん、すぐれた翻訳者で、原作の良さを十分に訳文に移してきたということもあって、これだけ訳者がちがうのに、どの作品も一定の評価を受け、しかも、ウェストールという作家のファンを増やしてきました。

 対照的に、語りのトーンで印象が大きく変わってしまう作品の場合は、訳者によって別の作品になってしまう恐れがあります。例えば、『ライ麦畑で捕まえて(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』ほか)』、『星の王子さま(『小さな王子さま』ほか)』などは、そうした作品ではないでしょうか。ただ、これらは、同じ作品を複数の訳者が手がけているからこそ、そういうことがわかるわけで、ウェストールの場合も、同じ作品を別の訳者が訳せば、印象が多少変わるでしょう。とくに、時おり見られる、筆が走るのにまかせて書いたようなリズム感やスピード感、独特な時間、空間、視点の変化などは、訳者によって処理方法が異なるのではないかと思います。それが文学作品の翻訳のおもしろいところですが、実際には、同一の原作に対して複数の翻訳が出版されることは、版権の切れた古典を除いてはまれなので、残念ですね。いや、訳者としては、あれこれ比較されずに済むので、助かっているとも言えますが……。

 もうひとつ、ウェストール作品の訳文を安定させる力となっているのは、のべ16作品のうち、12作品が、以前、インタビュー記事(2007年11月)でとりあげた、現徳間書店在籍の上村令さんによって編集されていることです。その時にも書きましたが、上村さんはとても丁寧に訳文を見てくださる方なので、訳文に不安定なところがあれば、事前に解消されていると思います。また、作品ごとに訳者が異なる理由は、上村さんが作品にふさわしいと思う翻訳者に依頼しているからでもあるのです。そういうことを考えると、良くも悪くも、文体の再現や、作品をまたがる訳文の一貫性には、訳者の選定も含め、編集者が大きな影響力をもっていると言えるでしょう。さらに、一人の作家の翻訳作品を、同じ出版社がラインナップとして出版しつづけてくれるかどうかも、翻訳作品における文体の統一感を左右するポイントだと思います。

 

短編それぞれの文体は?

 今回は短編集なので、この一冊に9編の作品が、そして、野沢佳織さん訳のもう一冊にも、やはり9編が収められています。となると、作品ごとの文体のちがいも気になりますよね。上述したように、ウェストールは、せまい意味での文体よりも、描かれている物語そのものが大切な作家だとは思いますが、わかりやすい着眼点として、人称と視点によって作品を分類してみました。

 すると、一人称・主人公視点が4作、三人称・主人公視点がやはり4作、三人称・多視点(と言っても、ほとんど主人公視点ですが)が1作でした。ほぼすべてが主人公視点であることから、どの作品にも、ウェストール作品らしい臨場感がみなぎっていて、文体のひとつの特徴になっていると思います。そして、改めて確かめてみると、一人称の作品は、どれも主人公の心理を描くことに力点をおいた作品であり、三人称の作品は、短編らしいストーリー展開を重視した作品であることがわかりました。訳している時は、こうした組み合わせを識せずに訳していましたが、考えてみると、理にかなった書き方と言えます。

 一部引用して、人称と視点のちがいを確かめてみましょう。

    Then he realized he was screaming at the top of his voice. He looked round, embarrassed, to see who he’d wakened up; who was staring at him with sleepy accusing eyes.

           “The Beach” (by Robert Westall, 1996)

 

 気がつくと、アランは声をはりあげていた。ばつが悪くなってあたりを見まわしてみる。だれかを起こしてしまったかもしれない。眠そうな目で責めるようにこっちをにらんでいる人がいるんじゃないか……。

          「浜辺にて」(ロバート・ウェストール作、上記短編集、p.22)

 

 これは三人称・主人公視点です。英語の主語は「he」ですが、訳文では「彼」ではなく「アラン」を用い、英語では6回出てくる「he, his, him」をすべて省略し、しかも、第二文からは、アランの心の中のせりふのような表現にして、主人公視点であることをはっきりさせています。やりすぎじゃないか、と思う方もいるかもしれませんが、これが、英語と日本語の表現方法のちがいです。作品全体を読むと、三人称ではありますが、主人公の視点での描写しか出てこないことがわかります。その主観的な感じを主語の省略と直接話法的な表現で日本語に移し、一方で、時おり、「アランは……」という言葉を入れて、文章を落ちつかせ、客観化するのです。そのさじ加減をうまくやると、臨場感があるのに、どこかで引いて見ている作者の目がある感じが出せます。この「浜辺にて」という作品はプロット重視の短編ですが、どんなお話かは読んでのお楽しみにしておきましょう。

 一方、一人称・主人公視点の場合はどうでしょう。

    Pasture House may still stand today; a long sandstone building in the Pennine foothills, a mile from the village of Unthank.

                                “The Shepherd’s Room” (by Robert Westall, 1997)

 

 あの山の家は、牧草地の中に、今も立っているかもしれない。ペニン山脈の山麓にある、砂岩でできた切妻屋根の細長い建物で、アンサンクの村から一キロ半ほどのところにあった。

  「羊飼いの部屋」(ロバート・ウェストール作、上記短編集、p.214)

 

 あえて作品冒頭の情景描写をぬきだしてみました。どこが一人称だよ、と思われることでしょう。もちろん、一人称であることの確認は、先を読まなければならないのですが、とりあえず、助動詞の「may」があることで、語り手(=主人公)の推量であることがわかるようになっています。「かもしれない」と言う時、そこには必ず推量している人物が存在しています。客観的ではないのです。また、訳文では「あの山の家は」としていますが、「あの」は英語にはありません。この「あの」には、英語が「Pasture House」を固有名詞扱いしていることを表わす役目と、もうひとつ、語り手の視点だということを示す役目があります。

 原作では、この冒頭の部分から「I」はしばらく現われず、情景描写が続き、第三段落になってようやく「my, me」が出てきます。

    As a child on holiday with my parents, the shepherd’s room fascinated me.

 

 ぼくは幼いころに両親と休暇でおとずれて、この羊飼いの部屋のとりこになった。

                                                (同上)

 

 この「羊飼いの部屋」という作品は、出来事に沿って主人公の感情の起伏を描いていく短編で、一人称がふさわしい文体です。訳文では「ぼく」としていますが、この「ぼく」の名前は物語の中盤、名前を呼ばれる時に一度だけ、しかも姓が出てくるだけで、名はわからずじまいです。そういう意味でも、徹底した一人称・主人公視点の作品になっているのです。一方で、先に上げた「浜辺にて」の主人公の名前「アラン」は、70回近く使われています。いや、正確に言えば、わたしが翻訳する際に、省略しなかった「he」や「Alan」を「アラン」としているのですが、これによって、視点は主人公でも、やや引いた感じが表わせるのです。

 また、ウェストールの作品は、作者自身のものの見方や感じ方が、せりふや描写に滲み出ていることがあって、それが、特徴でもあるのですが、それには、一人称・主人公視点の作品が都合いいでしょう。時おり、主人公の少年・少女の考えにしては、妙に達観したような理屈っぽいことが書いてあって、ああ、これは主人公の思いではなく、作者ウェストールの思いなんだろう、と感じさせる箇所があるのです。ウェストールが、そのために人称を選んでいるかどうはわかりません。一人称だから、思わずそういうことを書いてしまったのかもしれませんしね。

 だいぶ、長くなってしまいました。文学の翻訳における文体については、まだまだ分析する角度がたくさんあると思います。そもそも、同じ原作者の作品は、訳者が変わっても文体が一定していたほうがいいのでしょうか? 一概に、そうとは言えませんし、訳者が変わると作品が変わることが「芸術」としての翻訳の面白さだとも言えるでしょう。また、訳文の文体のちがいは、訳者のちがいではなく、原作者が作品ごとに文体を変えているからかもしれません。翻訳者の文体と原作者の文体の相性はどうか、という切り口もあります。いや、英語と日本語の文体の相性なんてわからないはずだ、とか、翻訳者は自分の文体なんてもっちゃいけない、変幻自在に日本語を操るべきだ、などなど、興味深い論点はいくつもあるのですが、いささか、わたしには荷が重くなってきました。「文体」というくくりでの話は今回でおしまいにさせてください。似たようなことは、これからも気づくたびに書くことになるとは思いますが。

 

 ところで、ウェストールの短編集、宮崎さんのカバー絵もいいんですが、カバーをとると現われる表紙そのものも、とてもきれいです。表紙は、浅葱色(あさぎいろ)というんでしょうか、わたしが子どものころから大好きな色で、見返しは桜色、スピン(しおり紐)は光沢のある淡い黄色というか、生成りのような色です。カバーの下は、どちらかというと和のテイストかな。装幀は鳥井和昌さん。美しい本です。ぜひ、手にとって、そして、読んでみてください。

(M.H.)

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