翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

「児童文学なんてありませんっ!」

 先日、「Be」の読書会でいただいた資料は、『人間と教育』(No.95、2017年9月号)に掲載された、赤木かん子さんの「児童文学なんてありませんっ!」という記事でした。連載第1回で「いまどき、児童文学なんてないんです……。」というタイトルがついています。ちょっとショッキングなタイトルですね。

季刊 人間と教育 95号

 

 赤木さんの文を読んで、なんとなくもやもやしていたことが、少しはっきりしました。

 つまり、われわれが子どもだった昭和30年代から50年代は文学全盛期で、翻訳文学がどっと流入し、全集もたくさん編まれました。わたしは昭和32年生まれですから、まさにこの世代です。

 赤木さんの分析では、その後1995年、つまりウィンドウズ95が発売された年に大きな亀裂が入り、ファンタジーとヤングアダルトの文化が終わった、とされています。この年までに生まれた人達は、つまり、今、21歳、22歳くらいから上の人達は、「ハリポタ」や「ダレンシャン」「デルクエ」で育ったのに、それより若い世代は、そういうものも読まなくなった。

 さらに、2008年にスマホが生まれ、また劇的な変化が起こった、と赤木さんは書いています。このあたりで、それまでずっと読まれていた本が、パタリと読まれなくなったという実感を、とくに小学校の図書館司書の方はもたれたのだそうです。一般の図書館よりも、学校図書館は年齢別の傾向を如実に実感する、というのは確かにそうでしょう。

 そして、親がスマホを見ながら子育てをした結果、今の小学校4年生より下の子どもたちには、基本的な日本語の能力が欠如している子どもたちがいるのだそうです。でも、頭はいい。そして、将来への不安も抱えている。平和な日本で暮らしながら、変わっていく社会の中で、自分に将来何ができるのだろう、戦争になったらどうしよう、と考えている……。

 

 とまあ、全部書くわけにはいきませんが、いちいち思い当たることばかりでした。

 

 で、赤木さんはこう書いています。「"いままでの児童文学"はいまの子どもたちの悩みに答えていません。」「もう、マシュウもマリラもどこにもいない、自分はそのやり方では助からないのだ……」「2008年の"ハリー・ポッター"終焉までは、確かに読める文学がありました。でもそれ以降、もう9年もほぼなにもない状態なのです。いまの小学生に何を読めと?!」

 

 この問いかけはとても重い。自分は子どもの本を翻訳していながら、こうした時代変化について、それほど深刻に考えてきませんでした。「読める子」が一部にいることは確かなので、それは昔も今も変わらないんじゃないか、と思い込んでいたのですが、赤木さんの話を読むと、どうもそういうことではないのかもしれません。

 現代の児童文学やヤングアダルト文学を翻訳することは、同時代に世界のどこかでそれを読んでいる子どもたちや、書いている作家たちがいる、そういう作品を紹介しているわけですから、あながち的外れなことをしているわけではない、と思います。

 ただ、赤木さんの論考を読んで感じたことのひとつは、自分は結局、自己満足のために子どもの本の翻訳をしているんじゃないか、という後ろめたさです。翻訳児童文学が全盛だった時代の思い出を反芻しているようなところは、正直どこかにあります。

 ほんとうに読者である子どもたちのことを考えているのか、知っているのか、(それとも、その必要はないのか?)という問題です。

 

 先日、ある編集者さんに、古典の新訳はやらないのですか、と訊かれました。その時は、「かつての名作がすべて今の子どもたちの胸に響くとは限らないけれど、響くものならやりたい」と答えました。古典児童文学を読む読書会でも感じていたのですが、「うーん、これは今の子どもには……」と感じることが少なくありません。でも、赤木さんの論考を読むと、もっと突き詰めて考えなきゃいけないのかもしれない、と思いました。

 

 赤木さんの連載、この先も注目していきたいと思います。そして、ほんと、もう少し考えなきゃ。

 

(M.H.)