ここ数年、自分の翻訳した本や、翻訳という仕事について、あるいは広く本について、文章を書いてくれないか、という話が時おり舞いこんできます。たいていは、ありがたく書かせていただくのですが、今さらながら、文章を書くという作業は難しいけれど、とてもためになるプロセスで、発見も多く、じつは自分が一番得をしているんじゃないかと思うこともしばしばです。
(本文とは無関係。部屋にある本たち。ほとんど、読めてないけど、あ、東本さんの『RIDEX14』は読みました。というか、コミックだし、字少ないし、10分くらいで読めるし……。『Poet X』はホーンブック賞とりました。おめでとうございます! 今年からなのかな、それとも、この本だからなのか、Fiction and Poetry というジャンル分けになっていますね。)
で、今朝も、自分の訳した本について文章を書いていたら、興奮してきました。なんのこっちゃ(笑)。
『ハーレムの闘う本屋』のことを書いていたのですが、ぱらぱらとめくりながら、ああ、そうだったなあ、とか思いながら、もらったお題との関連を考えて書いていると、なんか興奮してきました。病気かもしれません(笑)。
自分の訳した本は、とくに、この本のように自分でもちこんだ本は愛着が強くて、いろいろ考えていると、とても楽しいものです。で、二年、三年経っているのに、そうか、そういう見方もできたか、と今さらながら感じることもあり、一粒で二度おいしい、というか、そういう気分です。
で、それはどうしてかというと、やはり、文章を書く、からなのでしょう。書こうとすると、必然、読み手の思考の流れを意識します。すると、糸口になった発想から、思いがけないところへ展開していくことがあるのです。書かずに考えているだけだと、なかなかそううまくはいきません。
翻訳をしていても、時々、似たような感覚をおぼえることがあります。たぶんそれは、原作者の思考の流れや、あるいは飛躍の跡が文章に残っているからなのでしょう。もっとも、そういうものを深読みしようとしてとんでもない誤訳になったりもするわけで、要注意なのですがね。
ということで、さっき書いた原稿は、忘れたころにみなさんの目にふれると思いますので、そのころに、またお知らせしますね。
(M.H.)