翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

奥山恵歌集『窓辺のふくろう』

 奥山恵さんの歌集、『窓辺のふくろう』が、第14回日本詩歌句随筆評論大賞の短歌部門で大賞を受賞されました。おめでとうございます!

 奥山さんは柏でハックルベリーブックス(http://www.huckleberrybooks.jp)という子どもの本の専門店を経営していらっしゃって、以前、お招きを受け、『ハーレムの闘う本屋』の朗読会をやったり、『スピリットベアにふれた島』をとりあげた読書会に参加したことがありました。

窓辺のふくろう (COAL SACK銀河短歌叢書;かりん叢書)

 この歌集をいただいて読んだ時は、すごく心をゆさぶられたのですが、正直、短歌の評価などできる知識も力もなく、奥山さんご本人と面識があるので、とくにそう感じたのかなあ、と思い、たぶん、このブログにもなにも書いていないと思います。

 

 でも、やっぱりいい歌集だったんだ、と、今回の受賞で確認できたので、ご紹介します。

 

 その時感じたことがひとつあって、わたしたちは、たいてい短歌や俳句を国語の教科書で最初にふれますよね。だれそれの歌、だれそれの句、というように、一人の歌人や俳人の作品が、ぽろ、ぽろ、と並んでいる。たしかに、それでも、おお、と思う作品もあるのですが、わずか一行の文では、想像力をふくらませろと言われても無理があります。それで先生は、「この作者は結核で、この句を読んだ時はすでに……」とか説明するわけですが、もうその時点で生徒は、いちばんおいしい「自分で感じる」権利を奪われてしまっていて、感動もへったくれもないのです。

 わたしもそうでした。でも、おそらく初めて、ひとりの歌人の歌集を通して読んでみて、なんとなく、ああ、そうか、短歌というのはこういうものなのか、と感じたのでした。こういう読み方がいいのかどうか知りませんが、並んでいる(編者の力量もあるのでしょう)奥山さんの歌を読んでいくにつれて、作者の思いがしだいに浮かび上がってきて、ひとつひとつの言葉の意味が、ぼんやりと、時にははっきりと伝わってくるのでした。

 ああ、短歌というのはこういう風に読むんだな。「歌集」であることに大きな意味があるんだな、と気づいた瞬間でした。

 

 あ、そうそう、あと、ちょっとはずかしくなったのを憶えています。どうしてかというと、作者の心の中にはいってしまったようで、で、その人が面識のある人だったので、はずかしくなってしまったのです。不思議な気持ちでした。

 

 

 奥山さん、あらためておめでとうございます。

「窓辺のふくろう」こと、フーちゃん、元気ですか? また、おじゃましたいです。

 

 

 

 あ、表紙の絵は北見葉胡さん。われわれ子どもの本の翻訳者は、『ヒットラーのむすめ』の表紙絵でおなじみですね。

 

(M.H.)