翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム「再」再録 「原田勝の部屋」 第1回 翻訳のジャンル

★なかなかブログが更新できず、ついに禁断のコラム「再」再録をしようと思います。まあ、自分で読み返す意味もありますし、Facebook開始以降の読者の皆さんの中には、お読みいただいていない方もいらっしゃるはず。というわけで、以下、翻訳について書いた昔の記事を掲載します。(2017年7月26日)★

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 今日から、この1月まで7年あまり、サン・フレアさんの情報サイトに書かせてもらっていたコラム、「原田勝の部屋」を、週に二回程度、再録していきます。このコラムは、主に文芸翻訳を勉強している方むけに書いたものです。

 第1回は、2007年7月2日にアップした記事、「翻訳のジャンル」です。わたしは、児童書やヤングアダルト文学の翻訳を手がけていますが、なぜ、このジャンルに落ち着いたのか、という話ですね。では、どうぞ。

   

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第1回 翻訳のジャンル 

(2007年7月2日掲載、ブログ再録2015年2月22日)

 

 よく訊かれることの一つに、「なぜ子どもの本の翻訳をしているんですか?」という質問があります。翻訳出版される書籍の種類はさまざまで、翻訳者はたいてい自分の得意ジャンルをもっているわけですが、これから翻訳をしてみようと考えている人にとって、自分はどのジャンルが向いているのか、というのはとても大きな問題だと思います。

 参考になるかどうかわかりませんが、今回は、わたしが子どもの本の翻訳をするようになった経緯と、このジャンルの魅力や、周辺のことを少し書いてみたいと思います。

 

子どもの本との再会

 なぜ、わたしが児童書の翻訳をするようになったのか、一番の理由は、「なりゆき、偶然」です。えーっ、そんなの参考になるわけないじゃん、と思うかもしれませんが、まあ、割り引いて考えても、半分は「なりゆき」というのが正しい。それでご不満な方には、「出会い」とかっこよく言い換えればわかってもらえるかもしれません。そうです。人や本との出会いは、ずいぶんと「なりゆき」や「偶然」に左右されますからね。

 わたしがいずれは仕事として翻訳をしたいと考えたのは、大学を出て十年近く勤めた重機械メーカーを辞めようか、という時でした。ちょうど三十歳を過ぎた頃です。その時は翻訳のことなどなにも知らず、ただ、こつこつやれば、そのうち本の一冊や二冊は出せるはずだ、という根拠のない自信だけがありました。漠然とした目標は、四十歳までに最初の訳書を出す、というものです。これも、なんの根拠もありません。はは(--;)。

 まず、通信教育を一年間受けました。毎月添削されて返ってくる課題には点数がついていて、優秀者名簿なるものも同封されていました。今でも、どこかにとってあるはずです。修了すると級判定が出て、何級以上かは仕事を紹介してもらえるシステムでした。毎月の成績ではけっこう上位に入っていたので、こりゃ行けるぞ、と思っていたのですが、あえなく、一つ下の級で終わりました。

 そこで二年目は、同じ翻訳学校の通学部に通うことにしました。これこそ学校側の思うつぼですが、それはともかく、仕事の関係で、わたしは午前中の講座しかとれませんでした。そして、数少ない午前講座の一つが、翻訳家、金原瑞人さんの児童文学の講座だったのです。で、「なりゆきで」(先生、すみません!)金原先生の講座を受講してみました。

 まだ、今ほど有名人ではなかった金原先生ですが、それでも人気の講座で、時間帯からしても、講座内容からしても、当然のごとく受講生はほぼ全員女性でした。金原先生は、あまり細かいことを指導する方ではありませんが、後からずいぶんと、ああ、こういうことだったのか、と思うことがたくさんありました。機会があれば、あの時教わったことも書いてみたいのですが、なにより、最大の収穫は、「児童文学」あるいは「ヤングアダルト」というジャンルに出会えたことです。いえ、正確には、「再会したこと」と言った方がいいかもしれません。

 

言葉のごつごつ感

 なぜ「再会」かと言えば、じつはわたしは、子どもの頃、江戸川乱歩やルパン、ホームズ、アーサー・ランサムの「ツバメ号」シリーズ、そして、少年少女世界名作全集を貪るように読んでいたからです。おそらく、一生で一番本を読んでいた時代は小学校時代かもしれません。なぜあれほど夢中になれたのか? その理由の一つには、言葉を読むことそのものの面白さがあったからだと思います。

 どういうことかと言えば、大人になった今のわたしは、純文学であれ、エンタテインメントであれ、作者や訳者が使う日本語そのものが理解できずに困ることはめったにありません。でも、小学生だったわたしには、ストーリーをたどる楽しさとともに、ちょっぴり背伸びしながら、覚えたての言葉を得意げに、あるいは知らない言葉に想像力を働かせて、一語一語読み進めていたはずです。つまり、紙の上に並んでいる言葉をにらみ、意味をとり、頭の中に場面を思い浮かべるという読書の醍醐味を、常に新鮮な気持ちで味わっていたと思うのです。

 しかし、そのうちに、わたしの中でそれぞれの言葉に手垢がつき、角がとれ、ごつごつ感がなくなっていきました。当時は自覚していなかったので、本当のところはわかりませんが、今となってはそんな気がしています。大学入学前後から社会人になりたての頃まで、本を読むことに一時面白さを感じなくなっていたのはそのせいかもしれません。

 ところが、同じ子どもむけの本が、今度は英語という外国語で、まさしくあの頃のごつごつ感をもって、わくわくするストーリーとともに目の前に再登場したのです。英語で読む児童文学やヤングアダルト小説は、小学生の頃に感じた感動と、とてもよく似た感動を、再び味合わせてくれたのでした。

 金原先生の講座は、記憶によれば、半年を一期としていて、たぶん、わたしは五期、つごう二年半ほど受講したと思います。その間に、テキストとして扱われた作品だけでなく、その周辺の作品や作家を知ります。スーザン・ヒントン、ロバート・コーミア、ロバート・ウェストール、ロアルド・ダール、フィリップ・プルマン、ジョン・マーズデン……。彼らの作品は、これが児童書なのかと思うくらい刺激的で、折りしも、十代の読者をターゲットにした「ヤングアダルト」というジャンルが、金原先生の積極的な紹介もあり、日本でも認知され、マーケットも拡大していく時期でした。そして、ハリー・ポッターの出版が始まります。

 英米、そしてオーストラリアやカナダの児童書は、戦争、宗教、人種差別、貧困、セックス、薬物、性同一障害、ありとあらゆる社会問題をすばやく取り込んで作品に生かす積極性を感じるとともに、若い読者を対象にしているがゆえのそのストレートな語り口に大きな魅力があります。もちろん、こうした、いわゆる「プロブレム・ノベル」だけではなく、ファンタジーやアドベンチャーものなど、自由な想像力を駆使したものもとても面白い。誤解を恐れずに言えば、一般向けの小説であれば、それは強引だろう、ナイーブすぎる、と思われる設定も、許容範囲に入ってくるという側面があるのです。もちろん、それで作品の完成度が落ちることがあるのは、大人向けのものと同じですが。

 まあ、いろいろ理屈を述べましたが、結局わたしは、翻訳を仕事の一つとして始める前に、このジャンルの作品の魅力にはまってしまったのです。こうして書いて改めて思うのですが、本当に「幸運ななりゆき」でした。今も、「子どもの本」の仕事をしていますし、おそらく、この先も、そこに重心をおいて翻訳に携わっていくと思います。

 

原書を追って

 では、逆に、翻訳者は得意ジャンルをもたなければならないのか、という疑問にはどう答えればいいのでしょう? わたしにはよくわかりません。おそらく、すべての翻訳者は、上に述べたような、幸運な、そして時には、不幸な「出会い」の積み重ねの上に、今の仕事を築いていると思います。ある本を面白く読み、それではとばかりに、同じ作家の別の本を読んでみて、お次は、その作家が○○賞を取り損ねた時に最優秀賞をとった作家の作品に手を伸ばし、翌年度同じ賞をとった作家の本を取り寄せ、やがては、そのジャンルの書評誌を定期購読し、あるいはインターネットの書評サイトをブラウズしているうちに、ほら、あなたにも好きなジャンルができている、ということになるのではないでしょうか? ちなみに、今、述べたことは、細々とではありますが、これまでわたしが英語圏の児童文学に関して続けてきたことです。

 そして、もう一つ思うのは、せっかく翻訳という自己裁量の大きな仕事をやるのだから、自分の好きな本、面白いと思う本を訳さない手はない、ということです。一年に翻訳できる本は、たぶんフルタイムでやっても、四、五冊がせいぜい、一冊、二冊、というのが現実的でしょう。訳していて自分の感性に響かない本を訳している暇などない、とわたしは思います。

 そんなこと言ったって、最初の一冊は、無名の翻訳者は選べませんよ、来るもの拒まずでしょ、と思うかもしれません。そうですね。じゃあ、二冊目はぜひ、心から面白いと思える本を翻訳すべく、準備を怠らずにいようではありませんか。

 

 え? わたしの最初の訳書はなにかですって? 『未知の生命体──UFO誘拐体験者たちの証言』(デイヴィッド・M・ジェイコブズ著、矢追純一・原田勝訳、講談社刊)です。内容は、タイトル、サブタイトルでばっちりわかりますよね? 下訳でしたが印税を一パーセントいただきました。嬉しかったですね。二冊目? それは、また別の機会に。(M.H.)