翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム「再」再録「原田勝の部屋」 第3回 「見取り図」が描けるか?

★見取り図は今もできるだけ書くようにしていますが、原文ではつじつまが合わないことはやはりちょくちょくあって困ります。この回では偉そうに色々書いていますが、編集者さんや校正者さんに指摘されて初めて気づくことが多いのは今も変わりません。読者によっては、あまり位置関係を頭に中に再現していないという方もいらっしゃると思いますが、それでもつじつまが合っていることが無意識の部分で働いて、ここぞという時にイメージが立ち上がってくれることを願っています。(2017年7月28日、「再」再録)★

 

 この三枚の「見取り図」は、ちょっと興が乗ったので、ワープロのドローイング機能で描いたもの。いつもは手描きでちょこちょこやってます。

 手前は『二つの旅の終わりに』に出てくる、アムステルダムの倉庫を改装したフラットの平面図。うしろの二枚は『スカイブレイカー』の飛行船ハイペリオン号の断面図と、『エアボーン』の無人島の地図です。

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 では、どうぞ。

 

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 第3回 「見取り図」が描けるか? 

(2007年8月20日掲載、2015年2月28日再録)

 

 翻訳作業のために、「見取り図」を描くことがあります。

 最初に描いた見取り図は、たぶん、ロバート・コーミアの『ぼくの心の闇の声』(1997年、徳間書店刊)を訳した時でしょう。主人公の少年ヘンリーが働いている雑貨屋の店内を見取り図にしたのを憶えています。自分から描こうと思ったわけではありません。絵心もないのに、だれがそんな面倒くさいことをしようと思いますか。担当の編集者から「描きなさい」と言われたから、まあ、仕方なく描いてみたのです。でも、これはとても大切なことだと実感し、それからというもの、必要とあれば、部屋の中、島の地図、国境の検問所、飛行船の船内など、簡単な絵をちょこちょこと描くようになりました。

 

原書の世界を思い浮かべる

 翻訳は、一見、言葉から言葉への変換作業に見えますが、とくに言語構造が異なる英語と日本語のような場合、英語からいったん状況を頭の中に思い描き、その状況を日本語で描写する、という段階を踏まなければなりません。英語は日本語より状況描写に向いている言語で、上下左右前後などを、前置詞や動詞で的確に、しかも簡潔に描写できます。

 わたしは進学塾で高校生に英語を教えていますが、例えば「上」と訳すことの多い前置詞、on、above、over、upなどの違いを説明しながら、ああ、英語ってなんて便利なんだろう、とよく思います。科学論文などが英語で書かれるのも無理もありません。ところが、こうした英語は日本語の一語でズバリ表現できないことが多いため、とにかくまず状況を一度思い浮かべ、文章全体で、あるいは前後の文章の力も借りて、原書を読んだ時とできるだけ同じ絵が頭の中に浮かぶような表現を探ることになります。

 で、見取り図です。作者がどこまで綿密に作品世界を構築しているかにもよりますが、やはり、どんな作者でも、作中で人物が動く時は、その動きや周囲との位置関係を頭の中に浮かべているはずです。すべてを正確に読みとることはできませんが、繰り返し出てくる家や部屋の内部、町の簡単な地図くらいは、翻訳者の頭の中に再現されていなければ訳出することができません。はっきり書いていなければ、時には自分で補って位置関係を確定してしまうくらいのことをする必要があると思うのです。

 なぜなら、訳者がはっきりと思い浮かべられない場所や動きを、読者が思い浮かべることはできないからです。ある場面ではそれができたとしても、同じ場所が出てくる次の場面で、物の位置が変わってしまったようにしか読めない訳文を作ってしまう恐れがあります。すると、せっかく盛り上がってきたところなのに、読者は混乱し、物語に感情移入できなくなります。訳者も読者も鈍感であれば問題にならないのですが、それでは、頭の中に物語の世界を構築していくという読書の大きな楽しみの一つが失われてしまいますよね。原作者→翻訳者→読者、と同じ映像をバトンタッチできるのが理想でしょう。

 

風はどっちから吹いている?

 そういうわけで、わたしは「見取り図」を描きますし、描かないまでも、人物がどう動いているかは必ず想像し、それを再現するために、かなり言葉を補うこともあります。

 カナダの児童文学作家、ケネス・オッペルの冒険小説『エアボーン』(2006年、小学館刊)を訳した時は、飛行船に乗った主人公たちが不時着する、絶海の孤島の地図を描きました。尖った山、飛行船が不時着する浜辺、海賊ならぬ空賊たちの根城……。で、一つ困ったことがわかりました。太平洋にある赤道直下の島という設定なので、いつも貿易風が吹いています。わたしもこの時調べて初めて知ったのですが、貿易風というのは、おおよそ東から西に向かって吹く風で、日本のような中緯度帯で吹く偏西風とは風向きが逆なんですね。作者はこれを混同しているらしく、貿易風なのに、どうも西から吹いているとしか思えない描写を繰り返していて、島の風上にある空賊一味の家から、西の海に沈む夕日がきれいに見えちゃったりするわけです。

 ほかにも訊きたいことがあったので、メールで作者に問い合わせてみました。すると、「どうしておまえはそんなに『風』に詳しいんだ?」と感心されました。ちょっと調べりゃわかるだろ、と突っこみを入れたくなりますよね。しかも、それに続けて、「これは架空の世界の話だから、貿易風は西風にしてもいいぞ。あちこち直すの大変だろう」とありがたい返事が返ってきたのです。そ、そりゃ、そうだけど、それでいいんかい !?

 結局、「直しますよ!」と、断わりを入れ、貿易風がらみで風向きが出てくる場面は、すべて東からの風という設定で直しました。地図もつじつまが合うように描いてみました。この地図、なかなかいい出来で、編集の方も、「これ日本版に載せましょうよ」と言ってくださったのですが、まあ、原作というか、原作者の頭の中にある地図とはたぶん違っているはずですから、それはやめましょう、ということになりました。日の目を見なかった地図ですが、わたしにとっては大切な地図で、巨大な飛行船が砂浜に不時着する時、主人公たちが島の中を駆け回る時、捕われていた空賊たちの隠れ家から脱出する時、そして、修理を終えた飛行船が離陸する時、少なくとも、わたしの地図の上では矛盾が起きないようにしたつもりです。

 

心の動きも見取り図に

 原作者に部屋の見取り図を見てもらい、確認をとったこともあります。エイダン・チェンバーズ原作の『二つの旅の終わりに』(2003年、徳間書店刊)がそうでした。作者のチェンバーズ氏は、2002年に国際アンデルセン賞を受賞した世界的なヤングアダルト作家であり、児童書編集者でもあるのですが、とても気さくで、ユーモアのある優しい方です。

 この作品では、イギリス人の主人公ジェイコブが、オランダのアムステルダムへ旅するのですが、その時、古いレンガ造りの倉庫をモダンに改装した、知り合いのフラットに泊まることになります。リビングとベッドルームがぶち抜きになった広いスペース、客用のベッドルームに使われているロフト、表の通りから二階のフラットに上がっていく階段や、建物の横に張り出した格好になっているキッチンとバス・トイレなどが、原作の中にきちんと表現されていました。で、作った見取り図をファックスで送ると、これは自慢なんですが、パーフェクトだ、という返事が返ってきました。ただ、主人公と脇役が座る椅子の位置が逆だと言われました。言い訳ですが、これもわかっていたのです。作図した時のうっかりミスでした。

 チェンバーズ氏が、実在するアムステルダムの知人のフラットの設定をそっくり借りて書いたということもあり、もともと厳密な描写だったからこそ、こちらもそれを忠実に再現できたわけです。この本が日本で出版されてすぐ、彼は講演のために来日しました。その時、お会いしたのですが、さっそく椅子の位置を直した図を差し上げたことは言うまでもありません。

 と、まあ、偉そうに書いていますが、わたしもしょっちゅうへまをやらかしては、編集や校閲の方に、つじつまがあわないところを指摘され、誤訳と判明することが何度もあります。そういう時は、やはりどこかで手を抜いていて、状況をしっかり思い浮かべていないように思います。

 そしてまた、同様のことは、物の配置や人物の動きだけでなく、主人公の心の動きにも当てはまります。自戒の念をこめて書きますが、例えば、微妙な会話のやりとりで、白、と言っていたはずの人が、次のページで、黒、と言っているように読める訳文を平気で作ってしまうのは、偏西風と貿易風の話ではありませんが、その人物の心の風向きをきちんとつかんでいないからなのでしょう。そう、家具の配置や、島の地図だけではなく、登場人物の感情や思考の見取り図まで描くつもりで原文を読めるといいですね。

 

読者が同じ絵を描けるように

 しかし、見取り図が描けたら描けたでやっかいなことがあります。それは、読者には見えていないのに、訳者にはすでにはっきり見えてしまっているので、つい説明不足になり、読者に必要な情報を与えない訳文を作ってしまう恐れがあることです。往々にして、原作者にもそういう配慮が足りない場合もありますが、そこは翻訳者が補ってでも、初めて出てくる場所や物については、自分のこしらえた訳文だけで、本当に読者は同じ絵が描けるのか、よく考えて言葉を選ばなければなりません。

 読者の感想に、「読んでいて、目の前に情景が浮かんできた」「まるで映画を見ているよう」などと書いてあると、本当に嬉しいものです。

 しかし、秋からとりかかる予定のファンタジーでは、やっかいなことが予想されます。大変なのは、もう今からわかっているんです。なぜかと言えば、日常の世界からパラレルワールドに入っていくストーリーなのですが、ちゃんとした位置関係になっているところと、なっていないところがあるんです。見取り図にできない、ブラックホールみたいなところがあるんですよ。アリスの不思議の国にも似ています。

 でも、とても楽しみでもあります。作者が表現したかったことを読みとり、頭の中の映像に変え、それを日本語で再現し、読んだ読者が同じ映像を思い浮かべる……。ぴったり同じ絵にするのは不可能でしょうが、これこそが翻訳のおもしろさではないでしょうか。(M.H.)

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 文中の、「秋からとりかかる予定のファンタジー」というのは、ガース・ニクス作の「王国の鍵」シリーズのことですが、じつは、それほど大変ではありませんでした。だって、もともと絵に描けないようなことは、見取り図が描けなくても困らないからです。(M.H.)