翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム再録「原田勝の部屋」 第48回 翻訳の速度

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 クルム伊達さん、がんばってますよねえ。中年の星ですよ。公子スマイル健在、というか、若い頃より断然愛想いいし。何より、ほかにあんなテニスする選手いません。錦織くんもそう。ユニークなんですよ、テニスが。え? 翻訳と何の関係があるのかって?

 いや、最近は、ネットで伊達さんや錦織くんの試合が見られてしまうんですよ。ということは、翻訳の原稿を書いているワード画面の下には、常に伊達さんや錦織くんや浦和レッズの選手たちがいるようなもので、訳語につまると、つい、オンラインでテニスやサッカーの試合を……。

 

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第48回 翻訳の速度

(2013年3月25日掲載記事 再録)

 

 よく訊かれる質問に、「一冊訳すのにどれくらいかかるんですか?」というものがあります。これはなかなか答えるのが難しい質問で、原書が何ページあるのか、活字はどれくらいの大きさなのか、難解なのか平易なのか、さまざまな条件に左右されるので、一概には言えません。

 さらに、訳書を何冊か出している翻訳者なら、辞書なんか引かなくったってスラスラ訳せるんじゃないかと思っている人も多くて、これも困りものです。例えば、一時間で2、3ページは訳せるだろうから、一日8時間働けば20ページは堅い、週休二日でも一週間に100ページ、直しを入れても一カ月で一冊仕上がるんじゃないか、と思っているのです。中には、これに近い速度で翻訳する方がいらっしゃるかもしれませんが、わたしにはとても無理です。

 

月に何ページ訳せるか?

 それでは、一カ月でどれくらい翻訳できるのか、ざっと計算してみましょう。まず、わたしの場合はフルタイムで翻訳をしていないので、塾講師の仕事をする日をはずし、一週間に半日のソフトテニス(肉体的健康を保つのに必須)や、月に2、3試合ある浦和レッズのホームゲーム(+近場のアウェイゲーム、ほぼ半日、時に一日仕事、精神的健康を保つのに必須)に充てる時間を除くと、翻訳に使える日数は15日くらいでしょうか。控えめに見積もって、毎時1ページで8時間がんばれば、8ページ/日×15日で、一カ月で原書120ページを翻訳することが可能になります。おおっ!

 今の驚きの声でおわかりのように、こんなに翻訳した月は実際にはありません。もっとも多く訳した時でも、月100ページくらいです。そこで、パソコンに残っている過去8年間の記録を集計してみました。一応、この8年は仕事が途切れず、常に訳すべき原書がありました。刊行時期のずれはありますが、8年で18冊、年平均2.25冊が出版されたことになります。平均翻訳ページ数は原書で534ページ/年、44ページ/月でした。え? じゃあ、月15日とすると、一日3ページしか訳してないぞ!

 いやいや、だって、冠婚葬祭もあるし、たまには休んで旅行や帰省もしたいですよね。このコラムの原稿を書く時間も必要だし、読書会や講演会や、ね、いろいろあるんですよ。だから、きっと、翻訳に費やせる時間を日数換算すると、丸10日くらいなんです。つまり、一日4ページ半くらいは訳しているわけで……。え? それだけか、って? そもそも、一時間に何ページ訳せるのか、それを先に申告しろ? ごもっとも。

 

一時間に何ページ訳せるか?

 お答えします。たぶん、集中力がもてば2ページくらい、うしろに編集者が立ってにらんでいれば4ページくらい行けそうな気がします(気がするだけですが……)。白状しますが、一時間も集中力がもちません。だいたい20分くらいですかね。短すぎる? いえいえ、人間の集中力はそんなものですよ。だから高校生に教える時は、できるだけ20分ごとに扱う内容ややり方を変えていかないと、生徒は寝ます。

 しかも、機械翻訳とちがって、小説の翻訳では、ありとあらゆる判断や調べものをしながらの作業になるので、まあ、わたしの場合、結局1時間に1ページくらいのペースでしょうか。となると、8時間+残業で、一日10ページは行けるはずですよね。でも、やっぱり、一日5ページくらいしか進まないんですよ。

 だいたい朝の1〜2時間は前日分の手直しをするのですが、前日進んだなあと思う時ほど手直しに時間がかかります。寝る前の2時間くらいで3ページ近く進むことがあって、夜のほうが集中力が高いのかなあ、と思っても、翌日見るとリズムが悪かったり、雑な文章になっていることが多く、集中力が高まったというのは気のせいとしか思えません。そして、昼前後からその先へ翻訳を進めていくのですが、一時間に1ページとすれば、5ページ+αというのは、そんなにさぼっているわけではありませんよね?

 さらに、実際には一章訳し終えるたびに通しで直しを入れ、最後まで訳し終えたら、また全体を通して直し、ゲラになったらなったで、初稿、再稿、場合によっては三稿まで見ますから、その間は訳した原書のページ数は増えていきません。というわけで、ここ8年の実績、年平均534ページは、そんなに悪い数字ではないように思います。しかし、どんな原書であれ、一日5ページしか訳せないと思うと、それはちょっと少なすぎるんじゃないか、とも思うわけです。

 

翻訳の速度を上げる必要はあるのか?

 初めての訳書が出てから、いつのまにか20年が経過しましたが、その間、翻訳の速度は上がったのかと自問してみれば、まったく上がっていないように思います。記録をとっているここ8年でも、いろいろな事情で実績数値は上下していますが、右肩上がりで増えているわけではなく、ならせば横ばいです。

 なぜか? おそらく経験値が上がったために自分なりのチェックポイントが増え、これでよし、とするハードルが上がったからではないかと思います。つまり、以前だったら気づかなかっただろう微妙な言葉の使い分けに敏感になったため、「これはちがう」と感じることが多くなったのです。敏感になったのなら、最初から最適な訳語が浮かんでほしいものですが、「これはちがう」というのは気づいても、「これがぴったり」という訳語がすぐに思いつくわけではありません。昔は気づかずにそのまま原稿を提出し、編集者や校正者の皆さんの力を借りて修正していたのですが、最近は指摘される箇所は減ったものの、その分、あらかじめ自分でダメ出しをして修正しているわけです。

 たぶん、名翻訳家と言われる方たちは、訳文の質が高いだけでなく、翻訳スピードだって速いはずです。でも、わたしの場合、無理に速く訳そうとすると訳文の質が落ちてしまうので、どちらをとるかと言われれば、やはり量より質をとるほかありません。それでも、なんとかもう少し速くならないものか、とよく思います。

 速く訳すことができれば、それだけ多くの訳書を出せるはずです。収入が増えるのはもちろんですが、スピードが上がれば、浮いた時間で気になる原書を読み、出版社にもちこんで翻訳できるかもしれません。いいなあ、と思った本は、たいてい、いずれだれかが翻訳してくださるので、それはそれでいいのですが、タイミングの問題で翻訳されずに忘れられてしまうものもあります。そういう本をなんとか紹介できないものか、という思いがあるのです。がんばれば一日10ページ、いや、せめて8ページは訳せるんじゃないか。そうすれば、月80ページ訳したとして、一年で960ページ、今より1〜2冊多く出せるかもしれません。

 

速度アップのために

 幸い、今年は訳さなければならない原書が目の前に数冊あるので、翻訳速度をどこまで上げられるかを試す絶好の一年と言えます。そこで一番の障害となるのが、インターネットという魔物です。翻訳を始めたころはワープロでしたし、パソコンをインターネットに繋ぐようになってからも、最初は通信速度がおそくて、調べものさえ億劫になるほどでした。それが今は、サクサク検索でき、おかげでどれだけ作業効率が上がったことか。

 ところが誘惑も増えたわけで……。そう、各種サイトやブログの閲覧ですね。毎日必ず見るサイトが10や20ではきかないと思います。浦和レッズのホームページ、関連サイトから始まって、読書や翻訳に関するブログやサイトで必ず見るものがいくつかあります。作家のサイト、書評サイト、日米英のアマゾン、それに今年は昔乗っていたオートバイに復帰しようと思っているので、バイクやバイク用品の関連サイト、バイク乗りのブログも……。最悪なのが動画サイト。サッカーのゴールシーン、テニスでは大好きなクルム伊達公子さん、錦織圭くんの試合、さらに、テレビでなかなか流れないソフトテニスの試合、時おり、お笑いのビデオ……。

 しかもこいつらは、デスクトップに広げていた文書や辞書ソフトの上に瞬時に現われるのですから始末が悪い(いや、自分でアクセスしてウィンドウをひらいてるんですけどね……)。こうなると、パソコンにむかっているというより、テレビの前にすわっているに等しい。さすがに、一度に何時間も見るわけじゃないですよ。だって、テニスの試合なんか2時間超すこともありますから、ま、細切れに見るわけです。

 どういう時に集中が切れて、ネットサーフィンに逃避するか考えてみると、ほとんどが訳語に詰まった時です。いつも使う英和辞典、英英辞典はパソコンに入っているのでまだいいのですが、ネット上の辞書サイトを調べだすと、つい登録してあるサイトに行ってしまって……。そう、ここでどれだけ誘惑に負けず、原稿にもどってくるかが今年のわたしの最大の課題なのです。今考えている対策は、訳語に詰まったらストレッチをする、というもの。目も休めることができるし、すわりっぱなしで弱っている下半身強化や、五十肩の治療にもなり、なにより気分転換ができます。

 そうだ! 動画サイトならストレッチしながら見られるじゃないか! あらら、これはまずい、だめだめ! そこで、ぐっとこらえないと。しかし今回のコラム、担当の編集者さんが読んだら怒るかなあ。いや、それより、稼ぎの悪い夫をサポートしてくれている家内に見られるほうがまずいかも……。

(M.H.)