昨日は、今年、二度目の勉強会でした。気温がぐんとさがり、川越では日陰に残った雪がまだまだ解けそうにありません。
「補うべきか、補わざるべきか」
引き続き、ロバート・ウェストールの短編、"Blind Bill" をやっています。この日も活発な意見交換があって、講師のわたしはタジタジでした。
いくつも話題になった箇所があるのですが、こんなところがありました。
The footsteps and the voices faded, and Bill sat down in his chair again, with a thump, breaking out in a sweat of relief that they were gone. He had done the sensible thing, and he felt totally humiliated. Then a mad spurt of rage hit him and he wanted revenge.
("Blind Bill" by Robert Westall)
目の見えないビルは、ビルの存在に気づいていない不良少年に庭のリンゴを盗られてしまうのですが、がまんして声をあげてとがめず、そのうちに少年は去っていきます。とがめれば、盲目の老人である自分はなにをされたかわからない、これでよかったんだ、というのが、下線部の He had done the sensible thing です。
当番だったFさんは、下線部を、こう訳していました。
ビルは賢明であった。だが、何という屈辱だ。
わたしの訳は、こう。
思いとどまったのは賢明だったが、ひどく屈辱的でもあった。
いくつかの検討事項があります。英語では、"had done the sensible thing" となっていますが、ぐっと我慢して「なにもしなかった」ので、「賢明なことをした」とするのは、少しずれてしまうと思います。ですから、Fさんも、「賢明だった」としています。でも、「賢明なことをした」とできないのならば、「なにもしなかったことは賢明だった」と訳せないでしょうか? 訳せはすると思いますが、この日本語はちょっとおさまりが悪い。そこで、「なにもしない」を「思いとどまる」にしたのがわたしの訳です。(この前の段落の描写を受けています。)
どちらの訳がいい、というわけではありません。「ビルは賢明であった」としておけば、前後の流れで読者には十分伝わりますし、なにより簡潔です。
児童書の翻訳をしてきたせいか、わたしはあまり読者を信用していなくて、つい、誤解のないように言葉を補ってしまうくせがついているようです。この日は、そのような箇所がほかにも何箇所かありました。それに対して、Fさんは、この箇所だけでなく、どちらつかずの表現や、文脈からわかる表現を、原文を生かして簡潔に訳し、ある程度、読者に解釈を任せているように思いました。このあたりがそれぞれの訳文の文体につながるのでしょう。あるいは、例えば、大人向けのミステリやハードボイルドなどの訳文と、児童書の訳文のちがいになるのかもしれません。
毎回、自分のくせに気づかされて、ためになっています。
(M.H.)