少し時間がたってしまいましたが、先週月曜日の翻訳勉強会で思ったことを少し。
この勉強会ではいつも、前回担当だったメンバーが、勉強会で出た話を元に自分の訳文を見直してきて、改訳版を次の回の冒頭にみんなに配り、それを朗読する、という手順を踏んでいます。その時、Yさんの改訳版の中のいくつかの言葉に、「おっ」と思いました。
ひとつは、「さも」という言葉。改訳前は、「大事な話をしているように聞こえて……」となっているところを、「さも大事な話みたいな声の調子は……」となっていたのです。
原文は、"He made what he said sound important like ...... " ("Paperboy" by Vince Vawter, p.27)となっています。前後がないと判断するのはむずかしいのですが、この「さも」が入ったおかげで、なんだかとても小説らしくなった気がしました。
もうひとつは、「ありさま」という言葉。吃音症の主人公が授業でリンカーンの演説を暗唱させられ、「演説冒頭の「八十七年前」を言うのに授業時間の半分かかるありさまだった。」という部分。やはり、「ありさま」は前回の訳にはなくて、訳文が一段レベルアップした気がしました。
こういう言葉は、連発すると、いわゆる「クサい」文になってしまうのですが、「さも」も「ありさま」も、訳者に「語りの意識」がないと出てこない言葉のように思います。ですから、大げさに言えば、訳者が作者に近づいた、というか、英文和訳が文学に変わった証拠のような気がするのです。
もうひとつ、やはり似たような着眼点を。
The way Mr. Spiro talked to me was exactly the way Mam talked even though the words they used were different. They both looked straight at me and made me feel like I belonged right where I was.
( "Paperboy" by Vince Vawter, p.30 )
使う言葉はちがっていてもスピロさんの話し方はマームにそっくりだった。二人ともまっすぐ目を見つめて話すのでぼくは今のぼくでいいんだと思わせてくれる。
(『ペーパーボーイ』、原田訳、p.43-44)
ここは主人公(=語り)の少年が、いつも100パーセント味方でいてくれる黒人のメイド、マームと、初めて出会った新聞配達先の元船乗りの老人スピロさんの類似点に気づく場面です。
こういうところは、作品が文学としての深みを増す部分だと思いますし、読んでいて、そして訳していてドキドキする箇所です。
小説においては、背景となる町の様子が描かれ、登場人物が動き、せりふを言うだけでは面白くありません。こういった主人公の内面や、主人公から見た周囲の人物への思いがにじみ出るような文章、その人物像に陰影が加わっていくような文章があるかないかは、その作品を評価する上で大切なポイントです。そして、また、原文を読んだときのドキドキ感を再現するために、その一文をていねいに翻訳することが、やはり、英文和訳を文学にするために必要な意識なのではないでしょうか。
このような文章の効果を損ねずに日本語に移すには、原文に忠実に翻訳するだけでなく(いや、そもそも、「忠実」の意味がわからないし、そんなことができるとは思えないのですが)、大げさに言えば、こうした「文学の匂い」のようなフレーズやシーンに対する敏感さが大切です。
この敏感さがないかぎり、いくら翻訳のスキル(のようなもの)を身につけてもしようがないのではないかと思います。自分にその敏感さがあるのかと言われれば、はなはだ怪しく、原文の正確な理解がそもそもの土台となるだけに、偉そうなことは言えないのですが、ただ、こうした匂いをかぎたい、という気持ちはスキルよりも大切な気がするのですが、どうでしょうか。
(ドングリとシロヨメナ。「無言館」前の道端にて。)
(M.H.)