★文学は、いや文章は、平面上に記された文字という記号の連続で、よほどの速読術の達人でない限り、読者は一文字ずつ、順にたどっていくことしかできません。つまり、絵画や彫刻といった空間を占める芸術とちがって、文学は読者の「読む」という行為によって時間軸上に一本の線となって伸びていく「時間芸術」なのです。もちろん、翻訳された文学もその枠を超えることはできません。(2017年08月25日「再」再録)★
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この回で引用した本です。作家の北村薫さんが、早稲田で教えた時の講義録を中心に構成されたものですが、読みやすくて、とてもためになり、刺激にもなります。北村さんの作品では、『スキップ』がおもしろかったなあ。
北村薫の創作表現講義―あなたを読む、わたしを書く (新潮選書)
- 作者: 北村薫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/05
- メディア: 単行本
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第34回 翻訳は芸術か? (その2)
(2011年10月24日掲載、2015年06月30日再録)
今回も、引きつづき、翻訳、とくに文学の翻訳は芸術なのか、という視点で書いてみます。
時間芸術として
前回も紹介しましたが、手元の国語大辞典から「芸術」の項を抜粋してみると、「鑑賞の対象となるものを人為的に創造する技術。空間芸術(建築・工芸・絵画)、時間芸術(音楽・文芸)、総合芸術(オペラ・舞踊・演劇・映画)など」、となっています。今回は、この分類の話から始めてみましょう。
前回、演奏者と翻訳者の共通点を挙げましたが、やはり分類においても、音楽と文芸は同じジャンルである「時間芸術」に分類されています。建築・工芸・絵画が空間芸術と呼ばれるのは、作品が一定の空間を占めて物理的に存在し、しかもそれだけですでに成立しているからでしょう。それに対して、音楽・文芸が時間芸術に分類されるのは、どちらも演奏と読書という行為を通じて、時間軸上に再現されて初めて成立するからだと思われます。この「時間軸上に再現されて成立する」というところは、文芸翻訳にとって大切な視点ではないでしょうか。
再び、音楽と翻訳の対比で考えてみます。演奏者が楽譜を見て楽器を奏でる時、おそらく肝心なことが二つあって、一つは音の高低を再現すること、もう一つは、その音の組み合わせや連なりによる和音や旋律を再現することではないかと思います。
似たようなことが翻訳にもあてはまり、音の高低にあたるのが、語句単位の意味の移し替えだとすれば、和音や旋律にあたるのが、移し替えた言葉をどの順番で並べていくのかという選択にあたります。音楽では、一つ一つの音の正確さも大事ですが、複数の音が同時に、または連続して指定の速度で演奏され、旋律や和音となることが大切です。翻訳の場合も、言葉の意味を正確に移すことはもちろん大事ですが、言葉の組み合わせや連なりの工夫によって、語句の相乗効果や文の起伏を再現することに気を配らないわけにはいきません。
しかし、たとえば英語と日本語では語順に関する法則が大きく異なるため、原文の旋律とも言える、言葉の順序をそのまま再現することは不可能です。そこで原文の生む効果を、日本語で可能な語順によってできるだけ再現する、という次善の策をとることとなります。言ってみれば、「ドミソ」の順番だった原文を、Cのコードは保ちつつ、「ミソド」にするようなものですね。大切なのは、この時、「シレソ」や「ドファラ」にならないようにすることでしょう。
さらに、音楽には長調や短調、あるいは、楽曲中の転調があるように、文学にも作品ごとのトーンや、作中での転調があります。あるいは、楽章ごとに主旋律が変わるように、小説も、章によって雰囲気が変わったり、語り手が変わったり、いろいろな変化がありますから、翻訳者も、原作に合わせて作品のトーンを統一したり、あるいは意図的に変えたり、という操作までできれば、それに越したことはありません。まあ、なかなか、難しいことではありますが。
じつは読者が演奏者
ここまで読んできて、おや、なんだか前回挙げた演奏者と翻訳者という対比はおかしいぞ、と思った方がいらっしゃるかもしれません。前回、翻訳というのは、ピアノのために書かれた曲をヴァイオリンで弾くようなもの、という比喩を使いました。確かに、音楽の場合、楽曲を再現するのは演奏者で、聴衆はそれぞれの知識や音楽体験や感性を通じて、それを受けとります。しかし、文学の場合、テキストを読むという再現作業をするのは、じつは読者自身であり、同時にその同じ読者が、頭の中に再現された作品を味わっているのです。つまり、読者は演奏者であると同時に聴衆でもあるのです。では、翻訳者はなにをしているのかというと、たとえて言えば、ピアノのために書かれた曲を、ヴァイオリンで演奏できるように楽譜を書きなおす、編曲作業のようなことをしているのではないでしょうか。
こう考えると、また、いろいろなことに気がつきます。まず第一に、翻訳者は翻訳にあたって、聴衆としての読者を考えるより先に、演奏者としての読者を考えて翻訳しなければならない、ということです。たとえば、ピアノが英語で、ヴァイオリンが日本語だとしましょう。ピアノとヴァイオリンでは、当然、音域や出せる音の数や長さに違いがあります。ですから、編曲者はその制約を考えてピアノ曲をヴァイオリンのために編曲しなければ、演奏者である読者は困ってしまいます。ヴァイオリンで弾ける楽譜、言い換えると、日本語で無理なく読める文章にしなければなりません。演奏者に超絶技巧を求める楽曲もあるにはありますが、少なくとも、対象となる楽器で演奏不能な編曲をしてはならないのです。
次に、演奏者の嗜好や技量の問題があります。すなわち、対象となる読者層や年齢層を考慮して翻訳しなければならない、ということですね。以前、このコラムでも紹介したことのある『北村薫の創作表現講義』(新潮選書)の中で、作家の北村薫さんは、「読書とは表現活動である」という趣旨のことを書いていらっしゃいました。まさにそのとおりで、演奏者の技量が楽曲としての成立に大きく関わるように、文学を読むということは、表現者としての読者の力量に大きく左右される行為です。つまり、人によって、読めたり読めなかったりするわけですね。児童文学やヤングアダルト作品の翻訳に携わる身としては、常に意識していながら、とても難しい作業なのですが、音楽にたとえると、原曲が初心者でも弾けるやさしい曲だったのに、編曲したら、上級者向けのものになっていてはまずいわけです。もちろん、だれでも演奏できる曲が、年齢層に関係なく広く万人の感動を呼ぶことがあるように、やさしい語彙で書かれた作品が、子どもだけでなく大人にも感動を与えることはよくあります。いずれにしても、原作がどういう読者を想定して書かれているか、あるいは、どういうレベルの語彙や表現を用いているかを判断し、日本語でも同様の難易度を再現し、ターゲットとする読者が「演奏できる楽譜」、あるいは「演奏する喜びを感じられる楽譜」をめざしたいものです。
時間軸上での再現
翻訳者を演奏者、編曲者のどちらにたとえるにしても、原作を時間軸上に再現するという意識は、翻訳作業そのものにおいても忘れてはならない視点です。一つには、文章を作るには言葉を一列に連ねるしかないからであり、この制約を意識することで、どういう順序で情報を提供していくのがもっとも効果的かを否応なく考えるからです。訳文に手を入れる際、語順を入れ替えただけで、文章がぐんと引きしまることがあるのは、皆さんも経験があるのではないでしょうか?
また、文章のリズムやトーンを確認するためには、訳文を一定のスピードで読むのが有効だということからも、この「時間軸上に再現する」視点が大切だとわかります。つまり、ぶつ切りではなく、ある程度の長さを一度に再現することが重要なのです。鍵盤を一つ一つたたいて音程を確かめる作業も大切ですが、連続して音を出していった時に生まれる効果を感じとらなければなりません。わたしの場合、校正で訳文を読みなおす際には、一度目より二度目、二度目より三度目、というように、だんだん読むスピードを上げ、読者が実際に読むと思われる速度に近づけていくことにしています。そうすると、ゆっくり読んでいた時には見えなかった改善点が見えてくるのです。たとえて言えば、自分が編曲した作品を、まず自分で演奏してみて修正する、一種のリハーサルのようなイメージですね。
そして、こうした作業において、わたしがいつも念頭においているのは次の二点です。一点は、人物や情景が映像として頭の中に浮かぶか、そして、もう一点は、ストーリーに沿って心が動くか、ということです。当然、校正作業では単純なミスもチェックするわけですが、校了が近づくにつれて、目指すはこの二点に絞られていきます。(じつは、このおかげで訳し漏れや単純なミスが見つかることも多いのですが……。)そして、この二点、キャッチフレーズ的に言えば、「映像と感動」こそが、テキストが文学作品として成立するための大切な要素ではないかと思うのです。
もっとも、これは一筋縄ではいかないことで、一歩間違うと、原作とは似て非なるものを作ってしまいかねませんし、そもそも、原作をちゃんと読めているのか、という問題が常につきまといます。わたしも一人ではできずに、編集者や校正者の助けを借りながら、おぼつかない手つきで試しに弾いてみては楽譜を直す、そんな作業を繰り返しています。それでも、このような視点や目標をもって文学の翻訳にあたることが、前回も書いたように、「表現者」として「作品」を生むために大切なことなのではないでしょうか。
長くなりました。次回もこのお題の続きとして、翻訳者の個性などについて書いてみようと思います。
(M.H.)