★結局、この回で言いたいことは、文末の処理の話。リズム感やスピード感の操作、あるいは人物の性別、年齢、あるいは性格の表現まで、文末は多岐にわたる役割を負っています。(2017年08月27日「再」再録)★
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加藤周一著、『日本文化における時間と空間』です。
こんなむつかしい本はふだん読まないのですが、なにかのきっかけで、ふだん翻訳の時に感覚でやっている文末の処理が、論理的に解説されている部分を見つけました。ぼんやりとつかんでいたものが、はっきりと言語化されていて感動したのと同時に、感覚で処理していたものに説明がつくという、この母国語という言語の不思議も知りました。
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第37回 歴史的現在(その1)
(2012年2月27日掲載、2015年07月09日再録)
歴史的現在、という文法用語があります。字面だけではよく意味がわからない言葉ですね。このコラムの読者の皆さんならご存知の方も多いと思いますが、これは、過去の出来事を現在形で表わす英語表現のことです。主に臨場感を出すために用いられるのですが、ちょうど、今翻訳している作品が、ほぼ全編、この歴史的現在で書かれているので、少しこのことについて考えてみました。
翻訳するとどうなるか?
例えば、こんな風に用いられています。
Once I stayed awake all night, waiting for Mum and Dad to arrive.
They didn’t.
They haven’t.
But it’s alright. Nobody drives up that narrow rocky road from the village in the dark unless they’re Father Ludwick. He says God helps him and his horse with the steering.
(“Once” by Morris Gleitzman, 2005)
これは、ある章の冒頭部分で、典型的な歴史的現在の用い方です。最初は過去形の文で入って状況を提示し、第三文で現在(完了)形に移り、以降、章末まで現在形主体で綴られていきます。じつはこの小説、すべての章の頭が同様の始まり方で、この “Once” がタイトルにもなっています。作者が歴史的現在を用いた狙いは、臨場感を演出し、読者の視点を語り手でもある主人公の視点に引きつけることにあるのでしょう。上に引用した部分は、次のように訳してみました。
昔、ぼくは、ひと晩中目をさまして、母さんと父さんが来るのを待っていた。
二人は来なかった。
まだ来てない。
でも、わかってる。村から上がってくる道は、岩がごつごつつきでたせまい道だ。暗くなってから馬車で来る人はいない。ルドウィク神父は別だ。神父様はいつも、神様が助けてくださるから馬車が道をはずれることはないと言っている。
英日の各文を比較していただければおわかりのように、ほぼ忠実に英語の時制が日本語に反映されています。もちろん、意図してそうしたわけですが、改めて分析してみると、じつは、この英日の時制の一致は、たまたま一致させやすい内容だったからだとわかりました。
訳文を細かく見ていきましょう。最初の二文はこの章の導入であり、「昔、……」という出だしの言葉や、文末の「待っていた」によって、これから語られる文が語り手の過去の回想であることを表現しています。そして、第三文で「まだ来てない」と現在形に変化させることで、一気に物語の中の時空間に飛びこんでいきます。その後は、日本語の時制を英語に合わせて現在形にしてありますが、こうしても違和感がないのは、たまたま文の内容が、動作ではなく状態や習慣を描いているからなのです。「まだ来てない」「わかっている」というのはその時の状態ですし、「馬車で来る人はいない」「いつも……はずれることはないと言っている」というのは習慣と言っていいでしょう。こうした内容は、「いる」「する」などの現在形がなじみやすいのです。
状態・習慣か、動作・出来事か?
それに対して、動作や出来事を描いた文では、日本語の現在形の連続には限界があります。同じ章の別の部分を見てみましょう。
I can’t make out which ones are Mum and Dad.
I hold my notebook up for them to see.
The car doors open and the people get out.
I stare, numb with disappointed.
It’s not Mum and Dad, it’s just a bunch of men in suits with armbands.
五つの文はいずれも歴史的現在形ですが、訳文では次のようにしました。
どれが母さんで、どれが父さんか見わけられない。
二人に見えるよう、ノートをかかげてみる。
車のドアがあき、中の人たちが出てきた。
がっかりした。頭がぼうっとした。
おりてきたのは母さんでも父さんでもなく、腕章を巻いた背広姿の男たちだった。
訳文の時制は、前二文が現在形、後三文にあたる部分が過去形になっています。すべて現在形で訳すこともできるとは思いますが、文末が単調になり、リズムが悪くなるでしょう。さらに、ここにあるように、状態や習慣ではなく、動作や出来事を表わしている文章の場合、現在形の羅列は不自然になりがちです。そこで、過去形を混ぜることで変化をつけるわけですが、それができるのは日本語の時制が英語ほど厳密でないからです。
もう一つ、ここには、訳文の時制を決めるために考慮すべき要素があります。最初の二文は、英語の主語が “ I ”、すなわち語り手自身なので、主語と視点が一致しているわけですが、この一致を、訳文では「主語のない文+現在形」で表現しているのです。「ぼくは、どれが母さんで、どれが父さんか見わけられなかった」「ぼくは二人に見えるよう、ノートをかかげてみた」とするより、「ぼくは」を省き、文末を「見わけられない」「かかげてみる」としたほうが、読者と語り手でもある主人公との距離がぐっと近づきます。
一転、第三文では、主語が “The car” と “people” であり、かつ、ここでは「状態」ではなく、「ドアがあき」「人たちが出てきた」という、はっきりした一回の「動作」あるいは「出来事」が描かれています。そこで、日本語を過去形にすることで、語り手と主語のあいだの距離を読者に感じさせるようにしました。また、過去形に切り替えることでリズムが変わり、主人公の目に映っている状況の変化が際立ちます。
第四文も、「た」「た」と過去形にしてありますが、再び主語を省くことで、読者の心情を語り手の気持ちに引きつけます。“stare” をあえて訳さなかったのは、次の文で、語り手が車からおりてきた人たちを見つづけていることがわかるので、読者には語り手(=主人公)の中に入りこみ、同じ方向を見て、「がっかり」したり、「ぼうっと」してもらいたかったからです。
さらに、第五文を過去形の「だった」で終わらせているのは、このあと一行空きが入っているので、いったん、ここで流れを収束させておく必要があったからです。過去形にはそういう、文を落ちつかせる効果もあります。
訳文を作った時はこれほど分析的に考えたわけではなく、感覚で言葉を選んでいます。でも、改めて見てこうした分析ができるということは、日本語ならではの言語感覚がわたしの頭のどこかに染みついているからなのでしょう。母語というのはそういうものなのかもしれません。
『日本文化における時間と空間』(加藤周一著)
加藤周一の晩年の著作に『日本文化における時間と空間』という本があります。タイトルどおりの内容なのですが、この項を書くために参考にしようと読んでいたら、ここまでわたしが書いてきたのとよく似た記述を見つけました。その中から、夏目漱石の『夢十夜』の時制を分析した部分を引用してみましょう。
こんな夢を見た。
和尚の室を退つて廊下伝ひに自分の部屋へ帰ると行燈がぼんやり点つてゐる。片膝を座蒲団の上に突いて、燈心を掻き立てたとき、花の様な丁字がばたりと朱塗りの台に落ちた。同時に部屋がぱっと明かるくなった。襖の画が蕪村の筆である。……床には海中文珠の軸が懸つてゐる。焚き残した線香が暗い方でいまだに臭つてゐる。広い寺だから深閑として、人気がない。黒い天井に差す丸行燈の丸い影が、仰向く途端に生きてる様に見えた。
(中略)……『夢十夜』の文体の特徴を知るためには、この一節だけでも十分だろう。すなわち短い文を連用し、現在形と過去形を頻りに交代させて、一種の「リズム」を作りだす。どの文を現在形とし、どの文を過去形とするかは、文の内容とは関係がなく──したがって臨場感の強調というようなこととは無関係に──、文末の変化をもとめ、「リズム」感を基準として決められたようにみえる。これは全く形式的な配慮である。
(『日本文化における時間と空間』加藤周一著、岩波書店、59〜60ページより)
この文は、『夢十夜』という、漱石が創作した文学作品について言っているのですが、文芸翻訳においても同じ考え方をすればいいはずで、文末処理の一つの方針を端的に示してくれています。すなわち、リズム感を頼りに、現在形・過去形を使い分ける、という基準ですね。「臨場感の強調というようなこととは無関係に」という部分は、「原文の英語では臨場感を強調するために歴史的現在を用いていることとは無関係に」と、読みなおすこともできるのではないでしょうか。
じつは、今まで、リズムを整えるためだけに、訳文の文末をいじることに、なんとなく後ろめたさを覚えていたのですが、この部分を読んですっきりしました。リズム感を基準とするのは、漱石もやっていることなのだ、と。
さらに、加藤周一氏は、こんなことを書いています。
しかし果たしてそれだけだろうか。(中略)過去の現象には、二種類を区別することができる。第一種は、多かれ少なかれ持続する現象で、(中略)第二種は、過去の特定の時点で起こった出来事で、(中略)瞬間の持続的でない事件。この二種類の過去の現象を記述するのに、フランス語の文法では、第一種の現象には動詞の「半過去imparfait」形を、第二種には「単純過去passésimple」形を用いる。そういう過去の現象の分類と、その分類に対応する動詞(または動詞+助動詞)の二つの異なる形は、日本語の文法にはないし、英語にもない。しかし過去の夢の内容を回想する漱石のこの一節では、持続的現象には動詞(+助動詞)の現在形が、特定の時点の瞬間的な出来事には過去形が用いられている。
(同上、61〜62ページより)
どうです? 日本語において現在形と過去形を使い分けるのは、単にリズムを整えるためだけでなく、もう一つ、状態の描写には現在形を、出来事の描写には過去形がふさわしい場合があることが指摘されているのです。まったく同感ですね。
わたしは塾で高校生に英語を教えていますが、受験生にとっても、英語の動詞が表わす内容が状態・習慣なのか、動作・出来事なのかの区別をすることはとても大切です。大学入試問題では、英語の特定の動詞を進行形にするかどうかを問う問題が出題されますし、英語の現在形の多くが動作ではなく現在の状態や習慣を表わすという知識は、英文解釈においても、英作文においても、キーポイントです。こうしたことは、自分が受験生の時はちゃんと考えていなかったのですが、教える側に回り、翻訳をするようになって、とても大切な知識なのだと気づきました。
それはともかく、状態動詞・動作動詞の見分けと時制の使い分けは、翻訳の際の重要なスキルと考えられ、こうした切り口で訳文を練ることが、翻訳の質の向上につながるのではないかと感じています。
次回は、「時制と距離感」の話を書いてみようと思います。
(M.H.)