翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム「再」再録「原田勝の部屋」 第60回 早いがえらい、か?

★最近はとくに、早くてうまい翻訳者になれればいいのに、と思うようになりました。でも、早くならない……。(2017年09月22日「再」再録)★

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 この回は、翻訳においては、仕事が早いのが必ずしもいいことではないのではないか、という、言い訳じみた論を展開しています。いや、早くてうまければ、それでいいんですが、早いとまずくなるので、仕方なく、遅くてもそこそこうまい、を目指さざるを得ない翻訳者の遠吠えのような文です。

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  本当は、仕事が早くても遅くてもいいんです。できた訳文の出来さえ良ければ。で、遅いやつはコストパフォーマンスが悪いだけの話。それでも、少しでも出来がよくなるのなら、時間をかけて、良い作品を作りたいものです。

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第60回 早いがえらい、か?

(2014年11月17日掲載、2015年09月25日再録)

 

 会社員だったころは、どんな仕事にも期限がありました。期限までに仕上げないと、それを受けて次の仕事をする人が困ります。産業用機械のメーカーに勤めていたので、すべての製品に受注から納入までの工程表があり、その工程を守れないと、いくつもの部署や関連会社にしわよせが行き、製品の納入が遅れれば、罰金を支払わなければならないこともありました。引き渡しが一日でも遅れれば会社の信用に関わりますし、何より、契約違反なのです。

 しかも、ただ納期を守るだけでなく、いかに早く、安く作るかが企業としての生命線でした。過剰な品質は利益を減らす原因にもなりますから、契約書の仕様をぎりぎりでクリアする品質が、コスト削減や納期短縮につながったものです。わたしの仕事は、直接、製品の品質に関わるものではなく、大半は客先には見えない間接的なものだったので、出来栄えは二の次、余分な時間をかけずに処理することに価値がありました。社内の連絡文書を10分も20分もかけて推敲するのはむだです。必要なことが書いてあればいいのです。電話ですむことは電話ですませ、書類を作る手間を省かなければなりません。

 9年に満たないサラリーマン生活でしたが、こうした意識はその後もなかなかぬけず、翻訳学校で勉強を始めたころは、添削課題は早めに提出し、授業の予習はゆとりをもって仕上げることを心がけていました。出来はともかく、早く処理するのがいいことだと思いこんでいたのです。仕事で翻訳をするようになってからも、はじめのうちは、深く考えずに、原稿を早く編集者にわたすほうがいいと思い、一日でも早く最後のページに到達し、半日でも早く手直しをして、訳稿を出版社に送ろうとしていました。

 しかし、駆け出しの翻訳者がそんな仕事をしていては、訳文の出来など推して知るべしです。案の定、編集者の手をおおいにわずらわせ、もどってきた原稿には、編集者の「ご提案」なる鉛筆が入りまくりで、茫然とする、ということもありました。もちろん、編集者とのやりとりで訳文を磨くのは今もしていることですが、そのころは、最初の訳稿が必要なレベルに達していなかったように思います。

 

「早さ」より「品質」

 会社では、どの仕事も自分で期限を切れ、とも言われていました。仕事を頼む時は「◯◯までにお願いします」と伝え、仕事を受ける時は「いつまでに仕上げればいいですか?」と確認しろ、と。期限のない仕事は仕事じゃない、とまで言われました。今もその癖がぬけず、原書が送られてくれば、「出版予定はいつですか? 最初の訳稿はいつまでに?」、ゲラが出れば、「いつまでにもどせばいいですか?」と、必ず確認します。

 しかし、校了直前は別にして、編集者さんからは、おおまかな期限こそ言われるものの、徹夜必至の仕事を強いられることなどほとんどありません。実務翻訳や雑誌記事の翻訳などは、タイトなスケジュールでやっているのでしょうが、文芸翻訳の場合、日米同時発売などという場合を除けば、過酷なスケジュールを求められることはさほど多くないのではないでしょうか。まあ、わたしが、そういう急ぎの仕事をしてこなかっただけ、とも言えますが。

 たぶん、編集者にはわかっているのでしょう。「早いがえらい」わけじゃない、ってことが……。翻訳者にとっては目の前の仕事がすべてですが、編集者は複数の仕事を同時進行させているわけで、特別な事情がないかぎり、ひとつひとつの翻訳原稿が、順次できあがってくればいいのであって、翻訳者に依頼してから原稿があがってくるまでの時間が常識的な範囲であれば、少しくらい長くかかっても、できのいい訳文が上がってくるほうがずっといいと思っているはずです。

 

設計図は? 仕様書は?

 文芸翻訳は、文芸作品である原作を、言語を替えて、やはり文芸作品として成立させる仕事なので、この目的が一定以上の水準で達成されていないと、ある意味、契約違反というか、そもそも仕事になっていない、と言えます。しかし、この「一定以上の水準」というものが、数字で測れないのが厄介です。

 機械製品であれば、使用する鉄板の材質や厚みから始まって、完成時の製品の高さ、幅、長さ、備えていなければならない機能などが、すべて数字で契約仕様書に明記されています。ところが、翻訳の場合は仕様書がありません。あればおもしろいかもしれませんね。たとえば、「漢字の比率は30パーセント以下、主人公は『わたし』を使用、文末は『です・ます』調、彼・彼女は使用不可、第3章、第7章で読者を泣かせ、第5章では笑わせること。最終章、最終ページでは2分30秒の深い感動を保証……」なんてね。でも、こんな契約書が交わせるはずもありません。

 さらに、紙の上の設計図から立体的な実物を生みだしていく機械メーカーとちがって、翻訳の場合は、すでにある原作という完成品をもとに、それと同じものを別の素材(言語)で作る、という作業です。つまり、設計図を具現化するのではなく、「見本と同じものを、別の素材で作れ」と言われているに等しいわけです。ですから、ほんとうは、まず見本の寸法を測り、使ってみて性能や効果を確認するように、原作を読んでみて、使われている言葉の傾向や、文の長さや、作者の意図や、読者が受ける印象をつかむことから始めなければなりません。そして、自分なりの設計図や仕様書を作っていくわけです。数字では表わせないまでも、「漢字は少なめ、主人公は『おれ』、時々『ぼく』、簡潔な文章でメリハリをつけて……」などと考えるわけですね。そして、「読んだあとには、原作と同様の効果が日本の読者にも与えられるように……」と。

 ところが、その同じ設計図や仕様書を作るもととなる原文がじゃまをしてきます。作品全体を通しての原作者の意図や、表現の妙味など考えず、単なる言葉のおきかえに走ってしまえば、素材のちがう単なる模倣品が、つまり「似て非なるもの」になってしまいます。もともと、翻訳作品は原作とは「似て非なるもの」であるとも言えるのですが、できれば、「素材こそ似ていないが、発揮する性能はそっくり」を目ざしたいところです。

 そして、おそらく、同様の性能を発揮する、すなわち、原作と同様の情報や感動やインスピレーションを読者に読みとってもらおうとする場合、仕様書ぎりぎり、つまり、最低限の品質では、それは果たせないのではないでしょうか。自動車やオートバイが、ただ速く走れて操作性がよければ名車なのかと言えば、やはり、デザインや乗り味が評価されてこそ、「いい車」「いいバイク」になるように、翻訳作品も、時にはじっくりと手間をかけ、できれば美しく、味のあるものに仕上げたいものです。少なくとも、そういう意識をどこかにもって翻訳にあたりたいですね。

 

出来がすべて

 何より、読者にとっては、ひと月で翻訳したものだろうが、一年かけて翻訳した作品だろうが、どうでもいい、ということを忘れてはなりません。翻訳の出来、いや、翻訳であるかどうかさえ関係なく、作品としての出来がすべてなのです。酔っぱらって訳そうが、音楽を聴きながら訳そうが、根を詰めて訳そうが、だらだら訳そうが、いい作品ができあがればいいのですから。

 翻訳の仕事を始めて20年以上たちますが、ようやくわたしの意識は、サラリーマン時代の「すばやい処理」第一主義から、「ていねいに、いいものを」主義に変わってきたように思います。このことは、この間、ずっと続けてきた塾の講師の仕事にも、いや、仕事以外のさまざまなところにも、いい影響を与えてきたと思います。

 読者のみなさんの中には、会社勤めをしながら文芸翻訳の道を目ざしている方もいらっしゃると思います。不器用なわたしは、上記のようなことに気づき、仕事に生かすのに、ずいぶん時間がかかりました。翻訳という仕事に対してはいろいろなアプローチがあると思いますが、みなさんも、一度、こうしたことを考えてみてはいかがでしょうか?

 もっとも、最近は時々、自分にむかってこう言うこともあります。

「20年もやってきたんだから、もう少し、仕事、早くなってもいいんじゃない?」

(M.H.)