翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

『MARCH 1. 非暴力の闘い』

 読みました。

 というか、コミックなので、読みながら、目で見て、感じました。本当は3巻まであるので、全部読まなきゃ評価できないのかもしれませんが、コミックという形式の可能性を大いに感じさせてくれるので、それをできるだけたくさんの人に知ってもらいたくて、とりあげます。

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 もう50年以上前の、アメリカにおける黒人たちによる公民権運動の話。第一巻では、レストランやバスでの非暴力による差別撤廃運動の様子が描かれています。

 上にも書きましたが、何より感じるのはコミックの力。言語も習慣も風景も時代もちがう物語、というか歴史上の事件を語るのに、絵の力はとても大きい。しかも、自分はそれほど詳しくないけれど、コミックとしての出来もいいのだと思います。コマ割りや背景の処理などに力を感じました。

 

 前から思っているのですが、日本はこれほどの漫画大国なのに、児童書、とくにヤングアダルト文学を考える時に、コミック作品の評価がすっぽりと抜け落ちていることが多くて、これはどこかおかしいと思います。それほど漫画を読んでこなかった自分でさえ、日本のコミックのレベルの高さはわかっています。もちろん、文字だけの作品とはまた評価基準がちがってくるでしょうが、もっと評価してほしいし、その前に、評価の対象にしてもらいたい。

 

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 そして、もうひとつ、今の日本の政治情勢の危うさを考えた時に、この作品のもつ、とても重要な意味があります。国民には、平等な権利を求めて、あるいはいびつな法律の改正を求めて行動する権利があるのに、今の若い人たちは、そのことをあまり身をもって意識していません。じつは、日本の若者は(いや、年寄りも)、アメリカよりもよほど巧妙に、物言わぬ労働者として知らぬ間に差別されているのだということを感じとってほしいのです。男女の労働条件の格差もそうです。

 時折、塾の授業中に、ふとしたことから昔の国鉄のストライキの話などをすることがあるのですが、高校生たちはキョトンとしていることが多い。ふつうの会社員にだって、鉄道会社の社員にだってストをする権利があって、それで何十万人もの人たちが影響を受けたって、自分たちの権利の主張をすることができるのだ、ということを、彼らは身をもって知りません。

 わたしの世代は、中高生のころ、なんだか今日は先生たちが日教組のストで自習らしい、とか、電車がストで動かないから、20キロ先の高校まで自転車で行った、とかいう経験があります。でも、今の中高生たちは、そういう話をしても、シンジラレナイ、という顔をするばかりです。

 もちろん、一方で、労働組合には労働組合の問題があったわけですし、自分も一律の活動要求に逆らったりもしたのですが、でも、今の若い人たちは、そんなことは考えもしなくなっています。過労死や労働時間の規制撤廃の問題を論じる時、じつは、こうした一人一人の権利意識の薄さが大きな背景になっているのだと思います。日本は法律に書いてあることを、社会がなし崩し的に運用していくという、非民主的な社会です。国会で紛糾している文書改ざんや、文書公開の拒否などもその延長線上にあります。

 

 少し話がそれました。

 とにかく若い人たちにすすめたい。そして、自分たちのこととして考えてほしい。大人には、彼らに国民としての権利をちゃんと教える義務があります。今の学校ではそれが十分に行なわれているとは言い難い。(彼らの義務は、否応なくよってたかって要求しますからね。)

 

 国会前のデモも、国民の権利なんだということを、ちゃんと教えておきたい。

 

 

 NHKの「浦沢直樹の漫勉」の過去記事をリンクしときます。

 

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(M.H.)