2020年7月31日の朝日新聞の社説。高校の国語が、22年度実施の学習要領で、「論理国語」と「文学国語」という選択科目になる、という話。
暴挙です。
この社説では、日本学術会議が「『論理』と『文学』を截然と分けれるものだろうか」と指摘し、改善策を提言したと書いています。当然です。
日本語だろうが英語だろうが、言語には、長年のあいだに培われた文法という論理があり、時代に合わせて語彙やその意味するところを変化させながら、なおもお互いのコミュニケーションを成立させるにたる論理性を保ち続けています。
もちろん詩歌のように、一読しただけでは意味がわからない、あるいは意味に二重性をもたせた文章もあるのですが、その裏には、多くの人々が共通に認識しうる文化や言葉の意味が隠れているわけで、字面だけで勝負しているわけではありません。(もちろん、自由な解釈の余地を残しているのがおもしろいところではあるわけですが。)
こうした、多くの人々が共通に認識しうるツールであるはずの言葉を、すりかえたり、ずらしたり、枝葉の論理に導いたり、言葉尻をとらえたりして破壊し続けているのが、今の自民党の政治家であり、それに従わされている官僚の答弁だというのに、「論理国語」などという浅い言葉で、マニュアルが読めればいいといったようなことを言い出すのは言語道断です。そんな人たちが作る、使う人の気持ちを考えないマニュアルはろくなものにはならないでしょう。
また、この分け方は、文学には論理がない、と言っているようなものですが、プロットを組み立て、情景描写を整然と行ない、時間の流れを操りながら物語を構築する作業に、よくもまあ、論理性がない、という切り分け方ができるものです。
翻訳をしている立場から言わせてもらうと、外国語の文章の中に見える、あるいは、時には見えづらい論理を、あるいは作者が(勝手に)思っている論理を、一生懸命にさぐりながら再構築する作業は、もう、論理的としかいいようがないのです。それは、フィクションだろうがノンフィクションだろうが、詩だろうが同じ。もちろん、私自身の解釈や経験や言語感覚をフィルターとしているのですが、それはどんなコミュニケーションでも同じことでしょう。
翻訳の勉強会や添削をしはじめて、なおさらはっきりしてきたのですが、いい訳文は、ひとつひとつの文章や語彙に筋が通っているか、1+1が2になっているか、がスタート地点なのです。そうした訳文が積み重なって、結果的に、2が3や4になるのが、よい翻訳、というか、文学なのではないでしょうか?
業務連絡のメールだって、相手を思いやるメールには文学性があると、私は思います。
(M.H.)