川越の絵本カフェ『イングリッシュ・ブルーベル』さんで、古典児童書を読む会がありました。いつもは翻訳物を読むのですが、今回は宮沢賢治の「どんぐりと山ねこ」。岩波少年文庫の『注文の多い料理店』が指定だったのですが、うまく借りられず、世界文化社から2022年に出ている、100年読み継がれる名作シリーズを借りてきました。このシリーズ、ほかに新見南吉や椋鳩十、小川未明などがあるのですが、既刊のうち3巻が宮沢賢治です。ゆったりした版組に日下明さんのイラストがたくさん入っています。
宮沢賢治の作品は、自分が子どものころに読むタイミングをはずしていて、たぶん、教科書で少し読んだだけでした。でも、今回、いくつか短編を読んでみて、とてもよかったです。読んだ中では「やまなし」がよかった。なんとなくお話を知っていたので、読んでいたのかもしれません。
ふと思い出して、ほこりをかぶった本棚を調べたら、ちくま日本文学全集の宮沢賢治の巻をもっていました。ただ、読んだ形跡がない……。1991年発行の本なので、34歳すぎに買っている。うーむ……。
とにかく、少しずつ読んでいこうと思います。今日の会では、上手な朗読で聞く賢治は、自分一人で読む、とくに黙読したものとはまったく別物だ、という話が出て、何人もの人が大きくうなずいていたのが印象的でした。たしかに、今日に備えて読んだいくつかの短編は、別になにか考えてそうしたわけではないのに音読してました。黙読だと腑に落ちていかない感じがあったからです。絵本や詩と同じ、というか。さあっと読むと入ってこない。
そして、翻訳者の立場からすると、宮沢賢治の特徴のある擬音語や擬態語(「どう」と風が吹いたり、山が「うるうる」もりあがったり)はちょっと翻訳には使いにくくて、うらやましい。翻訳者はだいたい、自分で新しい表現を考えたりはせず、八割がたの読者が自然にたどっていけるような真ん中の道を選ぼうとする思考・選択回路ができていると思う。それでも、ときおり、そう思ってやったのに、最近は、その言葉はもう使いません、と鉛筆が入ったりするのだ。
いや、でも、いつかそのうち、風を「どう」と吹かせてやりたいけど、ダメでしょうか?
(M.H.)