翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

今日、ママンが……。

 訳しはじめた小説は、なかなか語り口が定まらなくて困っています。原文は三人称で書かれています。今までも三人称の作品はたくさん訳していますが、そのほとんどが主人公視点でした。主人公が子どもで視点がその子にある時は、会話だけでなく地の文でも使える言葉が制限されます。たとえば7歳の男の子が主人公なら、情景描写もそれなりの語彙の範囲で処理するように注意を払うわけです。

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 でも、今度の作品を読んでいると、純粋の三人称、つまり作者の視点と主人公の視点が混じっているような気がします。主人公の行動を逐次追ってはいるのですが、彼の心の中にどっぷり入りこんでいないのかも、と思わせます。すこし時間をさかのぼった描写だからでしょうか。これも、物語が進んでいくと、また、変わるのかもしれませんが……。彼の身に起きたできごとを追っていく物語であることはわかっているのですが、細かいところでなんだかしっくりこない。

 

 今のところ一番困っているのは「父・母」問題。父親や母親にどの言葉をあてるかはいつも訳者が決めなければなりません。「お父さん」か「父さん」、たいていこのどちらかで行けるし、時おり現われる客観描写では、「父親」としておけばいい。「パパ」はバタくさいので、できるだけ使わないようにしています。「父ちゃん」は、まずない。

 ところが今回は、フランス人の母親が "Maman" という表記で出てきます。視点が主人公でゆるがないのなら、「ママン」で通せばいいのですが、his mother が同じ段落内で混じり、視点の揺れを感じます。これを「母親」にすると、「ママン」との振れ幅が大きすぎる。父親のほうはドイツ出身なのですが、"Papa" と his father 。最近の英語だと、"Dad" や "Daddy" が多いので、時代性もありますが、"Papa" はフランス語らしくしているのだと思います。「パパ」にするしかないのか。

 「父さん」「母さん」に中和して統一しようかとも思ったのですが、「ママン」は母親がフランス人である印でもあり、それが物語の中で意味をもっている。会話では「ママン」でいいのですが、地の文になった時、視点が確立していないと、「ママン」と「母親」の使い分けができません。ああ、堂々巡りだ。

 それに、「ママン」という言葉には、我々日本人には、カミュの『異邦人』の邦訳の出だし、「今日、ママンが死んだ。」のイメージが厳然としてある。ある意味、フランスの代名詞的な働きまでしている気がします。

 そして、ママンはこの物語でも、やはり死んでしまうのです……。ですから、おそらく、その後ドイツへ移住する主人公にとっても、「ママン」は、お母さんの思い出だけでなく、自分の幼かったころのことや、フランスやパリへの郷愁なども含む言葉としての意味がある……。

 

 視点のありかを探りながらやるしかないのですが、どちらかに寄せないと読者は読みづらいだろうなあ。微調整の連続だなあ……。まあ、楽しんでやろう。

 

(M.H.)