翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム「再」再録「原田勝の部屋」 第47回 「役割語」という考え方

★「役割語」、とても大切な考え方です。一方で、あえて役割語を使わないことも、作品の質を高めるのにとても大切だとわかります。いやあ、言葉はおもしろい。(2017年09月05日「再」再録)★

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 翻訳、とくに物語中のせりふの翻訳に関しては、この「役割語」という考え方は大変有用です。ステレオタイプと思われるかもしれませんが、ある意味、言語というのはステレオタイプであるがゆえに、意志の疎通が図れるのです。

 ただ、金水さんのこの著書は、そのステレオタイプを破るタイミングや意味を解説してくれているのがすぐれたところでしょう。主人公には「役割語」を使うな、という主張には、なるほど、と膝を打ちたくなります。ん? これ、ステレオタイプの表現か? いやいや……。

ヴァーチャル日本語 役割語の謎 (もっと知りたい!日本語)

ヴァーチャル日本語 役割語の謎 (もっと知りたい!日本語)

 

 

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第47回 「役割語」という考え方

(2013年2月25日掲載、2015年08月11日再録)

 

 翻訳で避けて通れないのが、せりふの書き分けです。「ぼく」か「おれ」か、「わたし」か「あたし」か、などの一人称の設定から始まって、語尾を「〜です」とするか、「〜だぜ」「〜じゃん」「〜だよ」とするか、父親を呼ぶのに「お父さん」「父さん」「父ちゃん」「父上」「おやじ」「パパ」「くそじじい」(!)とするか、などなど、登場人物の年齢、出自、階級、性格、相手との人間関係、その他もろもろの条件によって口調を変えていくのはむずかしくもあり、また、楽しい作業でもあります。

 これに失敗すると、読者の頭の中に人物像がうまく結ばれず、登場人物の魅力も失われてしまいます。しかし、よく言われることですが、「あら、失礼しちゃうわ」なんていう言葉づかいをする女性はいなくなりつつあるし、「わしにまかせておけ。悪いようにはせん」などという年配の男性にも、まずお目にかかったことがありません。つまり、世の中の人たちが実際にしゃべっている言葉を録音してみても、物語の登場人物ほどには特徴がはっきりしていないはずです。

 それなのに物語、とくにマンガでは、今でも少なからず、お嬢様は「それ、よくってよ」、博士は「それはわしの発明じゃ」、不良少年は「おれには関係ねえ」、としゃべっています。わたしも、ここまで極端ではなくても、小説の翻訳において、ちょっとデフォルメした言葉づかいによるキャラクターの書き分けをしてきました。そして、少し前のことですが、こうした言葉づかいの問題を正面からテーマにとりあげた本があることを知り、読んでみました。

 

役割語はヴァーチャル日本語

 金水敏(きんすい・さとし)さんという日本語の研究者の著書で、『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(2003年、岩波書店)という本です。この本、実例をマンガや有名な小説からとってきているので、とても読みやすく、また、語り口がやわらかくて、時にコミカルで、おもしろい本です。この中で金水さんは、前述したような、ある一定の人物像を読者に想起させる特徴ある言葉づかいを「役割語」と呼んでいます。そして、役割語は現実の日本語とは異なるが、でもたしかに存在する日本語という意味で、「ヴァーチャル日本語」なのだ、と言っています。

 この本の前書きにちょっとしたテストが載っているのですが、引用してみますね。

問題 次のa〜hとア〜クを結びつけなさい。
a     そうよ、あたしが知ってるわ
b     そうじゃ、わしが知っておる
c     そや、わてが知っとるでえ
d     そうじゃ、拙者が存じておる
e     そうですわよ、わたくしが存じておりますわ
f      そうあるよ、わたしが知ってるあるよ
g     そうだよ、ぼくが知ってるのさ
h     んだ、おら知ってるだ

   ア    お武家様
   イ (ニセ)中国人
   ウ    老博士
   エ    女の子
   オ    田舎者
   カ    男の子
   キ    お嬢様
   ク    関西人 

       (『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』p.vより)

 どうです? 金水さんも書いている通り、ふつうの日本人なら百パーセント正解するはずです。これだけの短いせりふで同じ内容を伝えながら、多様な人物像を描きわけてしまうのですから、役割語おそるべし、です。しかも、「ニセ中国人」ってなに、「お武家様」の言葉づかいなんてだれも聞いたことないだろ、って話ですよね。つまり、ヴァーチャルなのに、日本人全員が共有しているイメージがある、というじつに不思議な現象なのです。

 理屈はさておき、われわれ翻訳者は、ふだんからこうした役割語をある程度使い分けているのですが、続けて金水さんは、「ステレオタイプ」の話へと進んでいきます。人間は毎日すさまじい量の情報を処理しているので、その情報をある程度型にはめ、ステレオタイプに分類しないと、やっていられないのだそうです。作家はこれを小説の中でうまく利用するというわけですね。

 さらに金水さんは、清水義範さんのエッセイ『小説の中のことば』から、以下のような趣旨の文章を引用しています。曰く、「その場かぎりの脇役には型どおりの役割語を使わせておき、すぐに消えてもらえばいいが、もっとリアルなせりふをしゃべらせたかったら、その人物についてみっちりと描写しなければならない。逆に、役割語ばかり使う作品は、わかりやすく、それゆえにB級作品である」

 

主人公は役割語を話さない

 つまり、主要登場人物には安易に役割語を使わせるな、ということになります。あまりにステレオタイプな物言いをさせると、鼻についた、いわゆる「クサい」表現になってしまうからです。金水さんはこう書いています。

しかし、主たる登場人物については、個人化された、深い処理を読者に要求しなければならない。そのためには、むしろステレオタイプを破って、読者の注意を引きつける必要があるのである。

       (『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』、p.43より)

 翻訳という観点から言っても、ステレオタイプとそうでない表現とのバランスをとることはなかなかむずかしい作業です。例えば、複数の人間が会話している場面では、適度に役割語を使うことによって、「と、○○は言った」という部分を省き、せりふだけで人物を際立たせ、文章にスピード感をもたせることができます。一方で、主人公が自分の思いを吐露するような場面で役割語を多用すると、それこそ「クサい」せりふになり、B級メロドラマ化してしまう恐れがあります。

 一人称について言えば、このコラムの31回『「ニヤリ」としたこと』でふれましたが、それまで「ぼくは……」と言って、いい子を演じていた主人公に、途中から本音を語っているのだという印象を与えるために、「おれは……」と言わせた例を挙げました。これなどは、主人公が作品の中で役割語を使い分けていると言えます。(いや、実際には、おなじ “I” を、わたしが勝手に「ぼく」と「おれ」に変えたのですが……。)

 また、昨年翻訳した南アフリカが舞台の『大地のランナー』(ジェイムズ・リオーダン作、鈴木出版)の中で、重要な脇役であるおじさんには、「わたし」を使わせました。編集者からは、部族の長であるこのおじさんには、「わし」のほうが似合っているのではないか、という提案がありましたが、「わたし」のままにしたのです。その時は、「わし」にすると、なんだかわざとらしいなあ、と思ったからなのですが、今回、金水さんの『ヴァーチャル日本語』を読んで、なるほど、そういうことだったのか、と思ったしだいです。つまり、「クサい」「わざとらしい」という感覚は、「あまりにステレオタイプな表現で、深みのある人物が描けない」ということなのでしょう。

 

原作に役割語はあるのか?

 こうなると、当然、じゃあ、原作の役割語はどうなっているんだ、ということになりますが、残念ながら、わたしにはその知識がありません。実在しないお嬢様英語や、実在しない老博士英語があるんでしょうか? 移民の多い英米の小説では、時おり、つたない英語をしゃべる移民が登場しますが、もしかしたら、あれはヴァーチャルな英語なのかもしれません。実際には、出身国や教育程度、在住期間などで個人差があり、これが移民英語だ、というような決定版などないように思います。

 役割語に似たものとして、なまりや方言が出てくることはよくあります。ロンドンのコックニーなまりや、イングランド北部の英語、アメリカの黒人英語などですね。こうした言葉づかいはヴァーチャル英語ではなく、実在する英語なので、実際にその登場人物の出自を表わしていると言えますが、場合によってはステレオタイプの演出として用いられていると思います。

 身分や年齢による英語のちがいはあります。教養のある上流階級の人たちと労働者階級の人たちの言葉づかいを変えていることはよくありますし、当然、年齢による語彙のちがいはありますから、こうした差異を役割語的に用いていることはあるはずです。

 原作におけるこのような英語のちがいを訳文でも生かす努力をすべきですが、原作ではちがいがなくても、日本語では適度に役割語を用い、あるいはその使用を控え、という加減をすることが必要だと思います。となると、その判断をどこかでしなければなりません。こうすればいいという規則はありませんが、言葉そのものとは別に、行間に、日本語で再現しなければならない関係性やニュアンス、個性などがあるのだ、という視点を忘れてはならないでしょう。

 

若い世代の役割語

 先日、第148回直木賞を受賞した、『何者』(朝井リョウ著、新潮社)を読みました。おもしろくて、一気読みでした。男女五人の就活中の大学生が主な登場人物で、ちょうどわたしの息子が就活を終えたばかりなので、いろいろ想像しながら読みました。作者の朝井リョウさんが大学を卒業したばかりの就活経験者ということもあり、リアルなせりふのやりとりやキャラクターの書き分けがみごとです。じつはここにも、巧みな役割語の使い分けがあるのではないかと、今回の原稿を書きながら思いました。しかも、主人公たちはツイッターやフェイスブックといったネット上の書きこみを通じて、別の側面を現わしていくという、複層的な書き分けが破綻なくされているところも読みどころです。

「リアルなせりふのやりとり」と書きましたが、わたしは就活大学生ではないし、年齢的にも30歳以上離れているので、彼らがほんとうにこういう言葉で話しているかは不明です。もしかしたら、あれもやはりヴァーチャル日本語なのかもしれません。

 塾で教えていると、高校生たちが、「マジうぜえ」「それ、ヤバくない?」「チョーうける」などという言葉を実際に使っているのがわかります。考えすぎかもしれませんが、彼らはこうした言葉づかいで、じつは集団内での自分のキャラを作っているのではないか、と思うこともあります。つまり、現実生活で役割語を使っているのではないか、と。(こうなると「ヴァーチャル」ではなく、現実なのですが……。)

 考えてみれば、わたしたち大人だって、時と場合によって、課された役割を演じるために言葉を使い分けています。これは、もはや金水さんのいうヴァーチャルな役割語ではありませんが、このような使い分けは、じつは、程度の差こそあれ、あらゆる言語に備わっている性質だと思います。われわれ翻訳者は、登場人物の性別や年齢、身分や職業だけでなく、場面、場面で課された文脈上の役割をも、日本語で再現するよう心がけなければならないのでしょう。

(M.H.)