前から感じていることなのですが、日本では、子どもむけの本で、悪人を徹底的に悪く描くことは、その作品のマイナス評価につながることが多いように感じています。悪いことをする人もやはり人間なのだから、いいところもあるし、悪事をしでかすにはそれなりの理由があるはずだ、ということですね。
しかし、欧米の児童書では(というほど日本人作家の児童書を読んでいないので、しっかりとした比較はできませんが)、わりとあっさりと、ある意味、残酷に、悪役を悪役として描ききっていることがあります。
昔話を考えれば、別にお腹を切りさかれて石を詰めこまれてしまうオオカミのことをかわいそうだとは思わないわけですね。いや、思う子どももいるかもしれませんが、だからと言って、オオカミにはオオカミの事情があるのだと説明するわけではありません。もちろん、これは寓話的な話なので、役割がよりデフォルメされて、はっきりしているからだとも言えます。
では、現代の作家が書いた児童書の中の、いわゆる悪役はどうなのでしょう。どうも、悪いやつが出てくると、どうしてこんな描き方をするのだ、子どもに読ませるには救いがなさすぎる、という評価をする人がいます。たしかにそういう面もあるかもしれませんが、逆にそうなると、登場人物の生い立ちや事情をいちいち説明しなくてはならなくなってしまいます。
拙訳の作品では、『ぼくの心の闇の声』の中で、主人公にユダヤ人が作った街の模型を叩きこわせ、と迫る勤め先の主人ヘアストンさんとか、『ペーパーボーイ』の中で、乱暴なふるまいをするホームレスの男、R・Tなどがそうですね。先日、このブログでとりあげた『レイン 雨を抱きしめて』に出てくる主人公のお父さんなどもこういうキャラクターにあたると思います。
たぶん、それぞれに事情があってそういう人になってしまったのでしょうが、彼らには彼らの物語があって、それはまたどこかで、別の形でだれかが描けばいいのではないか、とわたしは思うのです。ですから、ストーリーの中ではたしかに憎むべき存在なのですが、たぶん、悪い人、というのは、我々の人生の中でもそういう人なのではないでしょうか? だって、自分がなんらかの被害をその人から受けたからこそ、あいつはいやなやつだ、と思うわけですが、全人格を把握しているわけでもなく、また、自分だって、どこかでだれかを傷つけてきたことはまちがいなくて、あとから気づけばいいほうで、気づかないことがたくさんあると思います。
小説は登場人物にそれぞれ役割が付されています。子どもが読むものには悪人は出てきちゃいけない、というのは子どもをなめていると思うのです。もちろん、悪いことをした登場人物の内面や事情が描かれた本は、それはそれで存在意義があります。ただ、一冊の本でそうしてことをすべて描こうとすると、とても中途半端な作品になってしまうと思うのです。
じつは注のつけ方や、あとがきによる解説なども、この流れで考えると、無用だと思います。つまり、その一冊だけで、周囲の事情や歴史的位置付け、文化的差異などを解説したり、埋めたりしようとする必要はないのです。そういう知識がない読者には、たとえ子どもであっても、わからないところが残ったり、疑問が浮かんだり、場合によっては誤解が生じてもかまわない、とわたしは思います。
一般に、海外の子どもの本は、そういう視点で作られているので、解説も注もまずついていません。それは別の本や、知っている人の話や、学校の授業で補えばいいという発想なのでしょう。
あの、別に、訳者あとがきで、歴史的・文化的背景などの解説を書くのが面倒だから言ってるわけではないのですが(笑)、本を作る時に、その一冊だけで完結しようと考えることで、尖った本がなくなったり、いわゆる中途半端な完成度(表現矛盾ですが)を求めるのはちがうんじゃないか、と思うのです。
尖った本、好きです。
(M.H.)