翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム再録「原田勝の部屋」 第41回 原作者との交流

  1999年に、ロバート・コーミア氏から届いたクリスマスカード。

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 メールやSNSの発達で、手紙や葉書のやりとりがなくなってしまったのはちょっぴり残念です。

 

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第41回 原作者との交流

(2012年6月25日掲載記事 再録)

 

 翻訳をしていると、どうしても調べがつかないところが残ってしまい、原作者に確認したほうがいい、という場合があります。そんな時、少々心もとない英語で質問メールを書くわけですが、幸いにも、今まで返事が返ってこなかったことは一度もなく、やはり作家というものは、自分の作品が異国で翻訳出版されることがうれしく、また、その翻訳の精度も気になるのでしょう。先頃亡くなったアメリカの絵本作家モーリス・センダックは、翻訳された日本語のテキストをとりよせ、日本語がわかる人にチェックしてもらっていた、という話を聞いたことがあります。

 

ロバート・コーミアの場合

 わたしの訳書、『ぼくの心の闇の声』(1997年、徳間書店)の原作者ロバート・コーミア(Robert Cormier, 1920 – 2000)は、アメリカのヤングアダルト文学を代表する、鬼才と呼ばれた作家ですが、その暗いトーンの作品群から受ける印象とはちがって、とても気さくな人柄だったことで知られています。この作品を翻訳した当時は、質問をするにも、インターネット環境が未整備で、手紙で問合せをしました。

 コーミアは、マサチューセッツ州レミンスターで、子どものころからずっと同じ家で暮らしていました。電話番号を公開していたことは有名で、その公開の方法がユニークでした。なんと、自作 “I am the Cheese” の中で、登場人物の電話番号として自宅の番号を載せていたのです。読者が試しにその番号に電話してみると、コーミア本人が電話に出るという仕掛けです。コーミアは若い読者からの電話を楽しみにしていたそうです。ちなみに、この小説は映画化され、コーミア自身も出演しました。(邦訳は出ていません。これをお読みの編集者の方、日本でも翻訳出版しませんか?)

 しかし、いくら電話番号がわかっているとはいえ、さすがに、いきなり電話をかけて質問する勇気も英語力もないわたしは、質問状を作り、一通を出版社からエージェント経由でファックスで、もう一通をエアメールで郵送しました。返事はあっという間に返ってきたのを憶えています。

 このコラムの第21回『タイトルはだれが決める』でも触れましたが、『ぼくの心の闇の声』が本になると、もちろん出版社からも送ってあるのですが、礼状と日本語タイトルの意味を説明した手紙を添えて、わたしから直接コーミアに一冊送ってみました。すると、日本語版タイトル( “The Voice from the Darkness of My Heart” としておきました。)をいつか自作のタイトルに使いたいこと、日本語版の装幀や紙質への賛辞などが書かれた手紙が返ってきました。

 その後、1998年、1999年と、二度のクリスマスカードのやりとりがありましたが、残念ながら、2000年にロバート・コーミア氏は帰らぬ人となってしまいました。それでも、きっと今ならメールのやりとりで済んでしまうところが、インターネットの普及前ぎりぎりのタイミングで、こうした手紙での交流が成立したことはとてもいい思い出ですし、手元に残った手紙やカードは宝物です。

 

原作者と会う

 原作者と会う機会というのは、なかなかないものですが、わたしは今までに二度あります。一度目は、『ブック・オブ・ザ・ダンカウ』(2002年、いのちのことば社)の作者、ウォルター・ワンゲリンJr. です。ワンゲリンは日本では『小説聖書』(1998年、徳間書店)の作者として有名ですが、『ブック・オブ・ザ・ダンカウ』が出たあとですから、2003年ごろだったでしょうか、来日して何カ所かで講演をしました。その時に挨拶程度でしたが、言葉を交わし、訳書にサインをもらいました。ワンゲリン氏は宗教家としても著名で、人前で話すことに慣れていて、とても話の上手な人でした。大柄な人でしたが、人あたりのやわらかい、笑顔のやさしい人でしたね。

 もう一人は、『二つの旅の終わりに』(2003年、徳間書店)の作者、エイダン・チェンバーズです。チェンバーズ氏は、2002年に国際アンデルセン賞を受賞したことをきっかけに、日本国際児童図書評議会(JBBY)の招きで来日した際に会いました。チェンバーズ氏も、緻密な構成の作品から想像していた印象とはまったく異なり、話好きで、ジョーク連発のとても明るい人でした。(余談ですが、ジェフリー・アーチャー、ダニエル・キースなど、作家の来日公演を聴きにいったことが何度かありますが、話の上手な人が多くて、いい意味で先入観がくつがえり、いつも刺激を受けます。)

 チェンバーズ氏とは、出版社のアレンジで食事も一緒にしたのですが、英会話力の貧弱なわたしは突っこんだ話ができず、少し残念でした。自分の英語力がいびつなことを思いしらされた場面でもあります。と、言っても、その後これといった努力もせず、ネイティヴ・スピーカーと話す機会もなくて、わたしの会話力はますます退化しています。いざという時のために、また翻訳力の一貫としても、リスニング・スピーキングを鍛えておかなければ、と思ってはいるのですが……。

 

インターネットの時代に

 インターネットのおかげで、調べものがとても楽になり、調べがつかない事柄が少なくなりました。前述の『ぼくの心の闇の声』のファイルをぱらぱらめくってみると、あれからまだ15年ほどしか経っていないのに、当時は最寄りの図書館はもちろん、日比谷図書館、国会図書館、近くの教会にまで調べに行った形跡がありますし、辞典類のコピーや抜き書きなどがたくさん出てきて、自分でもちょっと驚きました。

 目先のことだけ考えれば、調べがつけば原作者に問い合わせる必要もないわけで、わたしも、直近の三作ほどについては質問メールを送っていません。でも、なんだか少しさみしい気もします。翻訳を始めたころは、作家というのはおそろしく気むずかしい人たちで、極東のしがない翻訳者のつたない質問になど答えてくれないのではないかと、びくびくしながら質問状を書いていたものです。それが、いざ送ってみると、以外に丁寧な答えが返ってくるし、原作のミスもあっさり認めたりして、その度ごとに、決まって、「なんだ、いい人じゃん」と思ったもので、楽しい経験でした。

 最初は、ワープロソフトのちがいが心配で、メールに質問を流しこんで送っていたものを、最近では、ワード文書ならメール添付で、ほぼまちがいなく読んでもらえますし、たいていの原作者は、一週間とおかずに返事を返してくれます。フェイスブックに登録している作家も増えてきて、読者と直接やりとりをすることをいとわない人もいるようです。わたしの訳書の原作者たちは、ほぼ全員が何らかの形でホームページをもっていますし、ガース・ニクスやケネス・オッペルはフェイスブックに参加しています。ニクスなどは、つい最近、自作『サブリエル』の映画化構想について、フェイスブック上で読者アンケートをとっていましたっけ。

 こうなると、翻訳者も、原作者ともっと積極的なコミュニケーションをとるべきなのかもしれません。J・K・ローリングと直接交渉して翻訳権を獲得した静山社の松岡佑子さんの例は最たるものですが、そこまでは無理としても、これだけコミュニケーション環境が進化しているのですから、もっと上手に原作者との交流を図り、翻訳の質の向上に活かすことを考えてもよさそうです。もちろん、すでにそういう交流をしている翻訳者はいるわけで、柴田元幸さんはポール・オースターを始めとする原作者との交友関係で有名ですし、洋書の森の会員でもある谷垣暁美さんは、アメリカまでアーシュラ・K・ル=グウィンに会いにいったそうですから、単に、わたしが人見知りなだけなのかもしれません。

 とりあえず、原作者への質問内容は進化させられるかもしれない、と考えています。ただ、意味のわからない単語や言い回し、固有名詞の由来や発音を問い合わせるだけでなく、作品の執筆動機や、登場人物の発言や行動にこめた作者の思いなど、テキストの裏にあることを訊いてみるのも、時に必要かもしれません。それには、原文の深い読みこみと英語での発信能力が必要ですが、これを機会に、ちょっと頑張ってみようかと思います。

(M.H.)