おおよそ訳し終えた物語を推敲のために読み直していると、とてもふしぎな瞬間にめぐりあうことがあります。
原書を読んで、十分理解したつもりで日本語に訳してきたはずなのに、それも、何度も読み直し、修正してきたはずなのに、翻訳作業も仕上げの段階になって、「ああ、そうか。そういうことだったのか」と腑に落ちることがあるのです。
今朝もそういう瞬間がありました。ほんとうは原書を読んでいる時にそこまで気がつかなければならないのでしょうが、言葉というのはふしぎなもので、ネイティヴからはほど遠い語学力の人間としては、日本語に訳されたものを読んで初めて、ああ、そうか、と気づくわけです。
でも、よく考えてみると、これはおかしな話で、訳しているのが自分なのだから、そこまでわかって訳していなければならないはずです。つまり、極端に言えば、テキストの字面だけを訳している部分があることになります。もちろん、原書を読んだ時に気づいていないために失われてしまうものもあるでしょうし(土台、原作者の意図を100パーセント理解するのは不可能ですが)、それは極力避けなければいけないわけですが、それでも、こうした、訳者の意図とは別に、言葉そのものの力によって、たとえそれが英語から日本語に移された文書であっても、活字の裏にある意味や物語の流れによって生まれる意味が残り、それに気づいた瞬間、心が動かされることがあるのは事実です。
なに言ってんだ、この翻訳者は、と思われるかもしれませんし、うまく伝えられていないのかもしれませんが、とにかく、これも翻訳という作業の面白さのひとつではないでしょうか。
うーん、うまく言えないなあ。だれか、わかってくれ〜。
(M.H.)