翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム再録「原田勝の部屋」 第45回 訳者の名前

 意識して選んでいるわけではないのに、なんだか、ちょっと怖いイメージの本が多くなってしまうのが不思議です。下の4冊は、いずれもわたしの訳書の原書カバー。

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 一度、出来上がったばかりの訳書を、ある書店の児童書売り場の方に読んでもらおうと思ってもっていったら、開口一番、「また、怖い話ですか?」と言われてしまいました。いや、そんなに怖い話ばかり翻訳しているつもりはないんですが……。

 

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第45回 訳者の名前

(2012年11月19日掲載記事 再録)

 

 前回、「訳書に自分の名前を出す」ということは、訳者によって作品が変わるという事実を踏まえ、翻訳も批評の対象とする、文学としてのあり方の一部だ、という趣旨のことを書きました。

 

コンサートはピアニストで選ぶ

 実務翻訳では、責任者の明示という役割のほうが強いのかもしれませんが、文芸翻訳においては、「訳者によって作品が変わる」という観点から、訳者名を記すことが大切なのだと思います。たとえば、英語からドイツ語へ、フランス語からイタリア語へ、というように、語彙や語順の共通性が高い言語間の翻訳であれば、訳者によるちがいはさほど大きくないのかもしれませんが、こうした言語から日本語に翻訳する場合、ちがいはかなり大きなものになります。

 現実には、原作の著作権が切れるまで(死後50年ほか、場合による)は訳者を変えて出版されることは少なく、そのちがいが比較される機会は多くありません。しかし、著作権が切れた古典については、いわゆる古典新訳として、訳者を変えての出版が行なわれ、その翻訳の良し悪しや好ききらいが話題になります。サン=テグジュぺリの『星の王子さま』、モンゴメリの『赤毛のアン』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』など、新訳が出ることで、さまざまな切り口から旧訳との比較が行なわれています。第39回でとりあげたバーネットの『小公女』にも複数の日本語版があり、わたしは川端康成の訳が好きですが、昨年(2011年)出版された高楼方子(たかどの・ほうこ)さんの訳が好きな読者も多い、ということはすでに述べたところです。

 翻訳を演奏にたとえたこともありましたが、皆さんは、クラシックのコンサートに出かける時、作曲家や作品の名前よりも、ピアニストやオーケストラの名前に惹かれてチケットを買うことが多いのではないでしょうか。わたしのように聞き分ける耳がない人間にとっては、演奏家によるちがいがよくわからないのですが、クラシックファンにとっては、そのちがいを味わうために行くと言っても過言ではないでしょう。

 古典新訳についてはコンサートと同様の現象が起き、どの訳者で読むかを選択する読者がいます。訳者によるちがいは演奏家によるちがいよりはっきりしていて、読みくらべれば一目瞭然です。音楽の場合は、楽譜という音階と音符の長さを指定する基準があるのに対して、翻訳の場合は、文法や語彙という基準や素材そのものをおきかえていく作業だからです。これは第34回で書きましたが、翻訳を演奏ではなく、編曲だと考えればうなずける話でしょう。

 しかし、前述のように、新しい作品については、同じ作品が別の訳者によって翻訳されることはほとんどなく、訳者による個性を比較して味わえる機会はまれです。だからこそ、だれが翻訳したかを明示することは、文学作品として成立させようとする出版サイドの意思表示として大切なのだと思います。演奏者名を知らされないコンサートがないことを考えればわかるでしょう。そして、訳者名を出しての仕事は緊張感を伴い、この緊張感こそが、じつは長丁場の翻訳作業を乗り切るための強い動機付けであるようにも思います。名前が出ないとなれば、つい手を抜きたくなるのが人情ですからね。もしかしたら、この名前を出すと言う緊張感が、「翻訳」を「作品」にするための、とても大きなファクターなのかもしれません。

 

フィルターとしての訳者

 翻訳者の個性は、同じ原作をどう訳したか、という形で現われるだけでなく、その人がどんな作品を翻訳してきたか、という訳書のラインナップにも現われます。

 たいていの翻訳者は、特定のジャンルを守備範囲にし、同じ原作者の作品を翻訳する機会が多く、また、限られた範囲の出版社や編集者から依頼を受けることで、それぞれのカラーをもつようになります。それがまた、傾向の似た仕事を呼び、結果として訳書の集積という個性になることは容易に推測できます。

 そうすると、「この翻訳者の訳す本はわたしの趣味に合っているから、訳者で検索して、ほかの本も読んでみよう」という選択の仕方が生まれてきますし、そうやって読んでもらえるのなら、これほど翻訳者冥利に尽きることはありません。

 わたしの場合はと言えば、ヤングアダルトや児童文学というジャンルの中で、戦争や差別といった社会問題をあつかった作品が多くなっていますし、また、ストーリーラインのはっきりした、登場人物の感情の起伏がはっきり描かれたものが多いと言えるでしょう。今年になって、ある若い編集者さんから、「わたしは十代の頃から原田さんの訳書を読んで育ちました」と言われて、大変驚き、また嬉しく思いました。単にわたしが歳をとっただけなのかもしれませんが、塾で教えている生徒たちの中にも、訳者の名前で読む本を選ぶ、という中高生がいるのは事実です。

 こうなると、翻訳者の名前を明示することは、本を選ぶ際のフィルターの役目も果たしていると言えるでしょう。

 

訳書は訳者を映す鏡

 ジャンルや原作者、作品のテーマによって作られていく訳者、あるいは訳者の名前に伴う個性は、作品や作者をある程度自覚的に選択していった結果と言えます。しかし、同時に、おもしろいと思う作品を選択しているうちに、自覚していなかった訳者自身の趣味や性癖が、翻訳した作品の共通項として現われてくる場合があるように思います。どうやら自分はこういう作品が好きらしい、と、あとから、じわじわわかってくるということですね。

 わたしの場合、その共通項は、どうやら、恐怖や死をあつかった作品であると言えそうです。むろん、一般的に小説というものは、人間の内面を描くために恐怖や死をあつかう可能性が高いということがあるでしょう。作中で人が死なない小説は存外少ないのかもしれません。しかし、それにしても、ふりかえって自分の翻訳した作品をながめわたしてみると、必ずといっていいほど、主人公は恐怖を感じ、死に直面しているのです。

 出版社から依頼された作品であれば、それはわたしの趣味ではない、と言えるのですが、自分からもちこんだ作品やリーディングで気に入った作品でも、強い自覚はないのに、かなり強烈な場面が含まれていて驚かされます。たとえば、爆弾で兵士の脚が吹きとばされ(『銃声のやんだ朝に』)、デモの鎮圧で両親が撃ち殺され(『大地のランナー』)、主人公は安楽死の是非に思い悩み(『二つの旅の終わりに』)、死んだ兄の復活を考えます(現在、翻訳中、お楽しみに)。『古王国記』では、ヒロインはネクロマンサー(死霊術師)ですし、『ガンジスレッド、悪魔の手と呼ばれしもの』は、まさに連続殺人犯をあつかった小説でした。

 フロイトの夢判断ではありませんが、「訳書判断」でもしてもらったら、わたしの無意識に関して、ありがたくない判断が下されるのかもしれません。もちろん原作を評価する時には、作品全体の出来を考えているわけで、そんな場面があったことさえ忘れていることもままあり、いざ翻訳にかかってから、「ああ、また死体が……」ということになります。まさか飛ばすわけにもいかず、きっちり頭の中に映像をたちあげ、言葉にしていくわけですが、さらにそれを何度も読み直して推敲していくのは、精神的に相当インパクトを受ける作業です。それを夕食の席で話題にするので、家内からはいやがられていますが……。

 もちろん、こんな場面だけが、「原田勝訳」の特徴ではないので、どうか誤解なさらないでください。鋭い社会性、軽妙なセリフのやりとり、テンポのいいアクション場面、美しい情景描写……、ほかにもいろいろ売りはあるんですよ。え? 今さらおそい? まあ、そうですね、文章には人柄が出る、と言いますが、同じように「訳書は訳者を映す鏡」なのかもしれません。わたしの深層心理の中に、自分でも把握しきれない部分があって、それが原作を選ぶ際に現われている可能性がおおいにあります。

 

 ところで、人づてに聞いたのですが、「原田勝って本名なの?」と言った方がいらっしゃるとか。こんな平凡なペンネーム、だれが使います? ペンネームなら、もっと華のある名前にしますって。

(M.H.)