翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

卒論が来た!(3)

 クリス・クレイゴさんが、ご自分の Facebook に、わたしの「卒論が来た!(2)」の記事の英訳を載せてくれました。クリスさん、ありがとう。「自分の文章が日本語に訳されているものを読むのは奇妙な感覚だ」と言ってますが、わたしも、自分の翻訳について分析されるのは、脳内をのぞかれているような奇妙な気分です。

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 そして、2回目を書いてから、ずいぶん時間がたってしまいましたが、拙訳『エアボーン』(ケネス・オッペル作、小学館)についてのクリス・クレイゴさんの卒論から、少し具体的なところを抜粋して訳してみます。 

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 クリスさん、第2章では、「訳注」というところに目をつけて、翻訳という作業の中で、訳者(って、わたしですが)がどこに着目しているかを論じています。日本語の翻訳作品は、日本語の特殊性もあり、様々な形で、訳者の注釈、言い換え、あるいは削除などが行なわれています。古くは、主人公の名前が、太郎や花子になっていたわけですからね。

 とくに児童書の場合は注をつけることに寛容なこともあって、つい、つけすぎてしまうという弊害もあるように思います。わたしは、最近はできるだけつけない方向での処理を考えています。

 

  第2章 訳注と読者層

 いかなる翻訳もまずは異国の地で新たな読者の獲得を目指すものであることを考えると、日本語版『エアボーン』のテキストのあちこちで、日本の読者を想定したさまざまな配慮がなされていることは驚くにはあたらない。英語で書かれたこの作品の原作は高く評価され、家庭の書棚や学校の教室に多く収められているわけだが、海を越えた訳書では、日本においても同様の年齢層の読者が読みやすいものにするために、さまざまな手法が用いられ、多くの補足が行なわれている。

 中でも、まず触れておかなければならない重要なものが「訳注」、つまり「訳者による注釈」である。訳注はこの作品のあちこちに挿入され、想定される若い読者には理解できないと思われるさまざまな用語や概念を解説し、わかりやすいものにしている。「訳注」という言葉からわかるように、そのような解説は原作にはなく、新たに追加されたものだ。そして、訳者の原田が、その訳注を作品の文中に直接挿入する必要性を感じていることは明らかで、訳注が作品を読んでいく上でテキストと一体化するように考えられていることがわかる。日本語版『エアボーン』における訳注は、ページの下に追いやられた単なる脚注ではなく、括弧に入れた語句をそのまま本文に挿入する形をとっているのだ。その様子は、あたかも訳注そのものが、ページの上を音もなく進んでいく小さな飛行船にも思えてくる。

 つまり、小説のテキストそのものに挿入された括弧内の訳注は、その対象となる、読者には理解できないと思われた言葉を、さながらオーロラ号のように、読者の理解の範疇へと「運んでいく」責任を負っているのだ。一例として、第1章で、乗組員たちが空を飛んでいるのを見たと主張する「翼のあるもの」の候補を、マットが挙げていく場面を見てみよう。

 

 原文:"Angels and dragons, sky kelpies and cloud sphinxes". ( p.21 )

 訳文:「天使や竜、空を飛ぶケルピー(訳注:スコットランドの伝説に出てくる、人を水死させるという馬の形をした水の精)や、雲の上を歩くスフィンクス。」( p.37 )

 再訳:"Angels and dragons, kelpies (Translator's note: Water spirits appearing in Scottish legends that took on the form of a horse and caused people to drown) that fly the sky, and sphinxes that walk on clouds".

 

 わずか一文に数種の神話上の生物が挙がっているので、どの生物が日本の読者には直感的に理解でき(天使と竜)、どの生物に最も戸惑いそうか(この場合は、いわゆる「空を飛ぶケルピー」)ということが、訳注のつけ方で一目瞭然である。とくに、上の一文からは、日本の読者はエジプトのスフィンクスにはなじみがあっても、スコットランドのケルピーとなると、知っている者ははるかに少ないことがうかがわれるし、同時に、訳者が読者に対してどのような期待や想定を抱いているかを知る一助にもなる。結果として、「スフィンクス」も「ケルピー」もカタカナで書かれており、同じように外国語由来であることが表現されてはいるものの、訳注でその特徴が明示されることによって、「ケルピー」の「外来性(異質性)」は倍加している。

 

 今のわたしなら、ケルピーをペガサスかなんかにして、訳注をつけずに処理するかもしれません。ちょっと訳注が重たいですよね。ところで、このクリスさんが用いている「再訳」という、わたしの訳文を再度英語に訳して原文と対比させる手法は、英語しか読めない人にとってはありがたいのでしょうが、訳者にとってみればヒヤヒヤものです(汗)。

 

 先を読んでみましょう。

 

 しかし、同じ『エアボーン』を読み進めていくと、オーロラ号の島への不時着の指揮をとるウォーカー船長が、乗組員たちに以下のように指示を出す場面が出てくる。

 

 原文:"… I want this vessel tied down as tightly as Gulliver!  Houdini could not shift her, nor a typhoon!  See to it, men!" ( p.118 )

 訳文:「係留マストはないが、この船をガリバーみたいにしっかりとしばりつけようじゃないか! 嵐が来ようが、あの有名な奇術師のフーディーニが来ようが動かないようにするんだ。みんな、頼んだぞ!」( p.169 )

 再訳:"We don't have a mooring mast, but let's tie this ship down tightly like Gulliver!  Make it so it won't move if a storm, or even that famous magician, Houdini, comes!  Everyone, I'm counting on you!"

 

 原作のテキストでは、オーロラ号の乗組員たちはみな、ガリバーもフーディーニも知っているという前提に立って書かれているが、翻訳された日本語版では、「半解説」とでもいうべきものがさりげなく挿入されている。ひと目でわかることだが、ガリバーについては、ロープが使われることによる連想を除いては、なんの注釈もないままになっているのに、フーディーニについては、「あの有名な奇術師のフーディーニ」( that famous magician, Houdini )という、原文には存在しない描写を用いることによって、実質的に紹介文のようなものが付け加えられているのである。この部分については、訳注と断わってはいないものの、こうした一文を付け加える必要があると判断されたことによって、原文とそこに言及された事項のもつ文化的背景の性質が浮き彫りにされ、また、日本の若い読者にフーディーニがどういう人物かを解説する必要があると原田が判断したこともくみとれるのである。

 

 ここも、今なら、フーディーニの説明部分を「縄抜けの巧みな」有名な奇術師、とでもして、ガリバーとの関係性を強調するでしょう。上の訳文では、そこがちょっとわかりづらい。いや、待てよ。最近の子は、小人国へ行ったガリバーが、縄と杭で地面に固定されてしまう話を知らないかもしれないので、ガリバーも説明が必要かもしれません。うーん。

 

 訳注や、訳文に溶けこませた間接的訳注は、日本の翻訳文学、とくに児童文学では、良し悪しは別にして、かなり頻繁に行なわれているのではないかと思います。しかし、その一冊だけで、中に書かれていることのすべてが自己完結的にわかる必要はないわけで、辞書をひいたり、ネットで調べたりすることもできますし、読み飛ばしておいて、頭に残ったフレーズの意味を、何年もたって知ったりすることも、また知識の習得のあり方としては自然な形だと思いますから、訳注など余計なお世話なのかもしれませんね。

 改めてそんなことを考えました。

(M.H.)