翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

卒論が来た! (その2)

 4月30日の記事でとりあげた、拙訳『エアボーン』の翻訳をテーマにしたクリス・クレイゴさんの卒論ですが、前回、序論冒頭を少し訳しましたが、その続きもなかなか面白いので、ちょっと訳してみました。

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  初めての方はこちらを。

haradamasaru.hatenablog.com

 

 序論、冒頭の第2、第3段落を原田訳で。

 なぜ、テキストの「再解釈」が必要となるのだろうか? 翻訳作業において、テキストを再解釈へと向かわせる要素にはどのようなものがあるのか? そうした再解釈の結果、翻訳されたテキストは、原文への忠実さを失ってしまうのではないか? 逆に、このプロセスを経て得られるものはなにか? そして、翻訳された作品には、また原文にも、どのような影響がもたらされるのか? すぐに思い浮かぶ答えは山のようにあるが、また、疑問も山のように浮かぶわけで、その山は翻訳されたテキストとそれを読む世界中の読者の上にそびえることを考えると、真剣に検討すべき価値があることは明らかである。

 幸いにも、飛行船にとっては、それが物理的なものであれなんであれ、山はさしたる障害とはならなかった。意味の循環と再記号化に深く関係する小説として、2004年にカナダの作家ケネス・オッペルが発表したヤングアダルト小説『エアボーン』と、2006年の原田勝による翻訳版は、同様の重い疑問とそれ以上の荷を運びつつ、「空気よりも軽い」豪華飛行船オーロラ号の試練続きの航行と、その無事の帰還を描いている。『エアボーン』は、ヒンデンブルク号が墜落炎上した時代を背景にしながら、飛行船が一世を風靡しているという設定に変え、オーロラ号に乗船してキャビンボーイとして働く15歳の少年マット・クルーズの活躍を、彼の一人称の語りで追っていく作品だ。……

 

 と、こんな調子です。うーん、ここでもクリスさんの作品によせる愛情と、飛行船をうまく使った比喩が印象的です。ただ、「意味の循環と再記号化」というフレーズは、じつはわたしにはよくわかっていませんが……。

 

 また、同じ序論の中盤で、こんなことも書かれています。

 言語的に見れば、英語と日本語は、それぞれが話されている国同様、遠く離れている。(ここで、注が入り、日本語がSOVという構造をもつことがあることを「田中さんはりんごを食べる」という例文で説明) しかし、それでいて、これら二つの言語の相違、さらにそれぞれの言語の文化的背景の相違を超える訳書として、日本語版『エアボーン』においては、相違を近づけ、あるいは通じ合う道を作ることを求める、翻訳過程における努力や苦労のあとがよくうかがわれる。だが、言葉がもつ意味も、またそれを表現するために用いられる言語も、基本的に、文化やその他独特の形式や習慣、またそれらのもつ傾向と不可分であるために、それらを単にどこかよそへ「運び移す」ことは、まったく不可能ではないとしても、悲惨な結果を招くであろう。

 しかし、期待と現実のはざまのごく限られた空で繁栄した飛行船は、当時からそうした不可能性と近しいものであった。原作者ケネス・オッペルの『エアボーン』のウェブサイトが標榜しているように、「タイタニック号より大きく」、「エッフェル塔より重く」、それでいて「空気より軽い」飛行船オーロラ号の存在そのものが、論理性への挑戦(この点は、主人公のマット自身もよくわかっている)として描かれていて、この飛行船こそが、不可能を許容するだけでなく、こうした矛盾を意図的に作品に生かす場となっている。作中のオーロラ号は、可能性と実現性、どちらの期待をも覆し、それでもなお堂々と空を飛ぶことによって、「不可能」を求めることにかけては負けていない翻訳という営みとの奇妙な共通性を提示するのだ。つまりオーロラ号は、飛行船のもつ性質そのものによって、この小説のおよそ半分の舞台となるだけでなく、翻訳過程におけるいくつもの着眼点や問題の舞台ともなっているのである。

 

  えー、ふだん訳している児童文学とはかなり言葉がちがい、しかも、クリスさんの比喩が観念的なこともあって、はなはだ心もとない翻訳ではありますが、彼が、飛行船という乗り物の危うさと翻訳の難しさを重ね合わせていることはわかっていただけたのではないでしょうか。

 次回は、もう少し具体的な検討部分を訳してみたいと思います。

(M.H.)