翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム再録「原田勝の部屋」 第52回 至福の時

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  この回で触れたのは、『王国の鍵3、海に沈んだ水曜日』(ガース・ニクス作、主婦の友社)です。これ、カバーをはずすと、きれいな水色の表紙をしています。この水色のおかげで、電車の中で男の子が読んでいるのがこの本だと気づきました。

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第52回 至福の時

(2013年9月30日掲載記事 再録)

 

本好き小学生現わる

 先日、都内に出るために電車に乗っていると、途中の駅から小学5年生くらいの男の子が乗ってきました。Tシャツに半ズボン、運動靴という格好で、それなりに荷物の入ったリュックサックを背負い、胸にはたすきがけに水筒をかけています。前髪を横に切りそろえた、いわゆる坊ちゃん刈りの髪型、メガネをかけ、色白で、いかにも賢そう。塾にでも行くところでしょうか、リュックサックの中には教材が入っているのかもしれません。

 そして、手にはちょっと厚めの本をもっています。乗ってくるやいなや、立ったままその本をひらき、一心に読みはじめました。感心、感心。今どきの男の子はマンガしか読まない、いや、マンガを読む子はまだましで、ゲームしかしない、とか言われるけど、いるところにはいるんだよなあ、本好きの男の子が。子どもの本を翻訳している身としては、自分の訳した本はこういう読者に読んでもらいたいものだ……。

 なんてことを考えていると、件の男の子、次の駅で、ちょうどわたしの斜め前あたりに空いた席を見つけてすわりました。本を膝の上にのせて読みつづけています。なにを読んでいるんだろう、と思っていると、なんとなく表紙に見おぼえがあります。図書館の本なのでしょう、ラミネート処理されたカバーはこげ茶色、縁にかろうじて見えている表紙の色は明るい水色……。おお、あれは、わたしの訳した『王国の鍵3 海に沈んだ水曜日』ではありませんか!

 きみはえらい! わたしは思わずその小学生に握手を求めて抱きよせ、これでジュースでも買いなさい、と言って、お小遣いでも渡したい気分でした。が、すぐに不安になりました。この子は、おもしろいと思って読んでいるんだろうか? まさか、この翻訳、読みにくいなあ、なんて思ってないよな。いや、あれは七巻あるシリーズの三巻目だから、つまらなかったら、一巻目でとっくに読むのをやめてるはず。そうとも、三巻目はダイナミックな展開だから、おもしろいと思ってるに決まってる。だいたい、塾に行く時にまで、こうして軽くはないあの本をもって、さっきから顔も上げずに読んでるじゃないか。

 

その時、わたしは……

 わたしは勇を鼓して席を立ち、男の子の前まで行くと、こう声をかけたのでした。「ねえ、きみ。その本、おもしろい? この本、おじさんが翻訳したんだよ。え? ああ、翻訳っていうのはね、外国の人が書いたお話を、きみみたいな日本の子どもたちが読めるように日本語に直すお仕事なんだ。この本の作者はオーストラリア人でね、オーストラリアは英語の国だから、もとは英語で書いてあったんだよ。で、どうだい? おもしろいだろ? おもしろいに決まってるよな。もう三巻目だもんな。レディ・ウェンズデーは出てきたかい? これから、まだまだおもしろくなるぞ。あと四巻もあるんだ、楽しんでくれ。ところで、きみはよく本を読むの? ひと月に何冊くらい読むのかなあ。好きな作家っている? まさか、好きな翻訳者はいないよな……」

 なんてことができるわけもなく、わたしはただ、『海に沈んだ水曜日』を読みつづける男の子の様子をじっとうかがうばかりでした。いや、あんまりじっと見つめていては不審者あつかいされかねませんから、ちらちらと視線を送ります。

 男の子の目は活字を追って、上から下へ、右から左へと着実なペースで移動していきます。急ぐわけでもなく、さりとて、途中で休むこともなく、いい感じに物語の中に入りこんでいるように見えます。そして、それから終点までの20分間、彼は一度も本から目を離すことなく読みつづけたのでした。

 

読者に届いた実感

 それは、わたしにとって至福の時でした。翻訳を始めて20年たちますが、自分の訳した本をだれかが読んでいるところを目にしたのは初めてです。考えてみれば、だれかに見られているとわかって読書をする人もいないでしょう。電車の中で読書をしている人はたくさんいますが、ひところの『ハリー・ポッター』ならいざしらず、その本が自分の訳書である確率はそうとう低いはずです。まして、小中学生が読んでいるところに遭遇する確率なんて、宝くじなみかもしれません。

 本の売れ行きから、ああ、思ったより売れなかったなあ(=読んでくれた人が少なかったんだなあ)、けっこう売れたなあ(=たくさんの人が読んでくれたんだなあ)、というのはぼんやりわかっても、訳した本が読者、とくに子どもたちの手に届いた、という実感を味わえる機会はなかなかありません。そもそも子どもには自分で本を買うだけの経済力がないので、本好きの子は学校や地域の図書館で借りて読むことになりますから、売れたから子どもたちが読んでくれているとは限らず、売れていないから子どもたちがまったく読んでくれていないとも限りません。

 インターネットの普及のおかげで、自分が翻訳した本の感想や書評は、昔に比べればずいぶんたくさん目にすることができるようになりました。それでも、それはほとんど大人が書いたものです。児童書好きの人、学校の先生、図書館司書、子どもの本の店を経営している人などの感想が大半で、子どもたちの感想はなかなか耳に入ってきません。読書感想文にはさまざまな制約や限界がありますしね。だいたい、子どもたちは、おもしろくても、つまらなくても、それを分析して文章に表わすことがうまくできないのがふつうで、だからこそ感想文を宿題にして、そういう経験をさせるのでしょう。

 というわけで、あの小学生が、少なくとも20分間は、わたしの訳書に没頭していてくれたことは、大変うれしい出来事でした。おそらく感想を求めたところで、「うーん、ふつう」なんて返事が返ってくるのが関の山だったかもしれません。でも、いいんです。子どものころに読んだ本の感想なんて「ああ、おもしろかった」「ああ、つまんなかった」「よくわかんない」だけでかまいません。感じたことを言葉で表現できれば、それに越したことはありませんが、言葉にできなくても、心の中にはいろんなものが蓄積していくはずです。

 あの小学生は、きっと自分であの本を選んで読んでくれていたのでしょう。文字を追っていたメガネの奥の彼の目が、なんと愛おしく感じられたことか。やっぱ、声かけてみればよかったかな。「こういう者です」って、名刺かなんか差しだして……。

(M.H.)