翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム「再」再録「原田勝の部屋」 第9回 翻訳の際の心がけ ── その4

★「自分の日本語」という表現は、傲慢な気もしますが、でも、自分の翻訳した本はすべて自分の言葉で成り立っているのだと思うことは、とても大切だと思うのです。(2017年08月02日「再」再録)★

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レトリック感覚 (講談社学術文庫)』と『レトリック認識 (講談社学術文庫)』 参考になりますよ。

 

 だれでも、自分の言葉、というものをもっています。それまで積み上げてきた言語体験や学習成果によって、人は自分らしい言葉の使い方や文章の展開の方法を知らずに身につけています。それは、どんな年齢の、どんな生い立ちの人にもあるはずです。

 

 わたしは学習塾で高校生に英語を教えていますが、英文和訳の解説をする時、「模範解答を写すな! 英文の構造や言葉の意味がとれてるかチェックしろ!」と言います。

 いい加減な生徒は、わたしの解説を聞きながら、本当は間違えているのに、「だいたいあってんじゃね」と、堂々と丸をつけます。コツコツ型の生徒は、熱心に模範解答の訳例どおりに自分の解答を直そうとします。優秀な生徒は、「ははん、こいつは、おれのと同じだな」とか、「そうか、ここが読めてなかったな」と見抜きますが、決して、模範解答を丸写しはしません。

 訳者の数だけ訳文は生まれる、と言われます。原文を読んで日本語にするまでのプロセスは、人それぞれ、そして、各人の頭の中にある日本語の資源も人それぞれです。まずは、それを自覚しておきたいものですね。

 心がけは、今回の「その4」で、ひとまずおしまい。

 では、どうぞ。

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第9回 翻訳の際の心がけ ── その4
(2008年3月12日掲載、2015年03月25日再録)

 

 「心がけ」も今回で終わり、残りの三項目は以下の通りです。丸くおさまるとよいのですが……。

            (8)自分の日本語になっているか?

            (9)言語は論理的なものだ

            (10)翻訳に、絶対の規則はない

 

 

(8)自分の日本語になっているか?

「自分の日本語」とはなにか、少し説明してみましょう。

 翻訳の腕を磨こうと、学校に通ったり、通信教育を受けたり、あるいは、個人指導を受けたり、下訳をしたりすることがあります。わたしも通信教育を一年受け、翻訳学校に三年通いました。こうした学習法は、いずれも自分の訳文を、講師の訳文や模範解答という名の他人の訳文と比較する方法にほかなりません。それ自体は悪いことではありませんが、注意しないと、そこには大きな落とし穴があると思うのです。

 まず考えてほしいのは、やがて一人立ちし、出版社から直接仕事を受けるようになった時、赤を入れてくれる講師はいないし、頼るべき模範解答ももちろんない、ということです。辞書の力は借りるとしても、基本的には、一人でひねり出した日本語で勝負しなければなりません。自分の中から出てくる日本語というのは、読書経験や育った環境、受けた教育によって時間をかけて培われてきたものです。だからこそ、人それぞれ、ちがった味わいをもつ訳文がアウトプットできるのです。

 なのに、修行中だからといって、他人の訳文を正とし、自らの訳文をひたすら否定していくという作業に熱心に取り組んでしまっていいのでしょうか。そんなこと言ったって、下手だから学校に通ってるわけで、自分の訳文を直さず、なにを直すんですか、と思うかもしれません。直すのはいいんです。でも、他人の訳文に自分の訳文を添わせるのではなく、自分の日本語を積み上げるために、人の訳文を利用するというベクトルで取り組まなければ本末転倒です。

 講師の先生がおっしゃった表現は、いずれ「自分の日本語」になりそうだ、と思えば、ありがたくちょうだいすればいいのですが、どうしてもしっくりこないと思えば、自分の訳文を残すか、第三の表現を捜すべきでしょう。

 さらに、「自分の日本語」が通用すると信じなければ、翻訳はできません。実力を過信しろとか、傲慢になれ、と言っているのではなく、信じたその日本語こそが、今の自分の実力であり、直しを入れて向上させていくべき対象そのものだからです。対象がないのに、どうやって直していくのですか? わたしだって、今でもなお、編集者に単純な誤訳を指摘され、校正者に漢字の使い方を直され、穴があったら入りたいと思うことがしばしばです。でも、ミスも自分の日本語の一部なのです。ミスの原因は、記憶の誤りや知識の偏り、言葉の好き嫌いなど、さまざまでしょう。完璧な日本語などというものはありませんが、限りなくミスの少ない、自分らしい日本語はめざせるはずです。

 いきなり名文家にはなれません。実力を伸ばすには、まず自分の日本語を信じ、でも、問題に気づいた時には謙虚に考え直し、フィードバックは、他者の日本語ではなくて、あくまで「自分の日本語」に向けてすべきだと思うのです。

 

 

(9)言語は論理的なものだ

 昨年でしたか、ル=グウィンの『ゲド戦記』や、マーガレット・マーヒーの翻訳などで知られる翻訳家、清水真砂子さんの講演を聴きに行きました。やわらかな、それでいて確かな語り口が印象的で、楽しくもためになる講演でした。残念ながら内容の大半は忘れてしまいましたが、どうしても忘れられない言葉があります。それが「言語は論理的なものだ」、という一言なのです。

 たしか、この言葉は、翻訳の技能についてのお話の中で発言されたものだと思います。「原文がどういう意味なのか一読してわからない時、言語は論理的なものだという信念にもとづいて原文を読み返す」おそらく、そんな文脈ではなかったでしょうか。少なくとも、わたしの中にはそういう形で残っていますし、かねてから思っていたことと重なったために、大変印象的でした。

 わたしには言語学の知識がありませんので、この言葉が学問的にどういう意味をもつのかはわかりません。しかし、まったくちがった文法体系をもち、文字や発音も大きく異なる言語同士の翻訳において(英日の翻訳はまさにこのケースですが)、支えとなるのは、この論理性だと思うのです。

「論理的」というのは、おそらく二つのレベルがあると思います。一つは、文法的と言えばいいのか、言語が本質的にもっている論理性です。英語には英語の、日本語には日本語の文法があるわけですが、文法というのは、知れば知るほど、よくもまあ、こんなに複雑な規則が自然発生的にできたものだ、と感じ入ります。あれだけ不規則変化があるのに、どこが論理的だと思うかもしれませんが、言語というのは、なんだかんだ言って、規則に基づいた表現に収斂しているのです。そうでなければ、初めて会った人同士が、同じ言語を話すというだけで、スムーズに意思の疎通を行なえるはずがありません。

 もう一つのレベルは、文章の内容、文脈が備えている論理性です。これは言語の違いを超えた論理性と言っていいでしょう。使用言語が違っても、「1+1=2」になるはず、という推測はすべきだし、「1+1=3」と読める時は、テキストに誤りがあるか、こちらの解釈に誤りがあると考えて、読み返すべきなのです。こうした論理性は、とくに訳文を見直している時に実感することが多いですね。なぜなら、原文との突き合わせで見逃した誤訳が、日本語の訳文だけを読んでいる時に見つかることがよくあるからです。

 この二つの論理性は、進学塾で高校生を教えていても痛感します。範囲を決めて単語テストをやれば毎回満点をとり、文法の復習テストもよくできる、なのに長文読解が苦手という生徒がいます。こういう生徒は、往々にして文脈を論理的に類推できない場合が多いのです。逆のパターンの生徒ももちろんいるわけで、こちらは、文脈は類推できるのに、言語としての論理性、単語・文法の知識が乏しいために、根拠のない推理をしてしまうことがあるのです。どちらの論理性が欠けてもうまくありません。

 思い返してみると、わたし自身は学生時代、完全に文脈の論理に頼るタイプでした。今でも単語力や文法力は弱いと思います。おまけに、英語圏での海外経験がないため、体験的知識も貧弱です。したがって、原文が読めない時は、複数の辞書を何度も引き、フレーズを丸ごとインターネットで検索にかけ、とにかく時間をかけて調べるようにしています。通訳にはなれなくても、翻訳者にはなれそうだと思ったのは、こうして人に知られず、恥をかかずに(結果としてかくこともありますが)、日本語に直す作業ができるからです。

 小説を始めとするフィクションの翻訳には感性が必要だと思っている方も多いと思います。もちろん、感性は大事ですが、論理的な読みができることの方が大切ではないでしょうか。わかりやすく言えば、「辻褄が合っているか」ということです。わたしも編集者からいろいろな指摘を受けてきましたが、大半は、「辻褄が合わない」ことに関してです。誤解を恐れずに言えば、1+1が、ちゃんと2になっている限り、訳文としての破綻は、じつは、そう多くないはずです。

 

(10)翻訳に、絶対の規則はない

 さて、ようやく最後の項にたどり着きました。読み返してみると、ほとんどが先輩方の受け売りで恐縮しています。でも、とりあげたものはどれも、わたし自身の経験を通して実感したものばかりです。翻訳の勉強を始めた頃にも、本や雑誌でこうした先輩方の言葉を読み、あるいは授業で先生の言葉を聞いて、ふむふむ、とわかったような顔をしていました。でも腑に落ちたのは、ずいぶんあとになってからでした。理屈としてはわかっても、身に染みて理解するには、自分も試行錯誤してからでないとだめなようです。

 読者の皆さんは、翻訳者としてのキャリアも人それぞれで、これまでわたしが「心がけ」として書いてきたことに、さまざまな感想をおもちのことと思います。共感していただける部分もあれば、そうでない部分もあるでしょう。当然だと思います。

 いわゆる「翻訳のコツ」的なものは、どれも問題の一断面を切りとったものにすぎません。わたしが挙げてきた九つの項目にも必ず裏表があり、表だけ考えていてはバランスを欠くはずです。

 ですから、「翻訳に、絶対の規則はない」という言葉を最後につけ加えておきます。すべてはバランス。臨機応変。でも、忘れてならないのは、原作を読んだ時にだれかに伝えたいと思ったこと、心理描写、情景描写、ストーリー、人物造形、詩情、感動、興奮、恐怖……、これらを読者に伝えるために訳すということ。その思いを忘れず、細やかな配慮を積み重ねた訳文を紡ぎだしたいものです。 (M.H.)