翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム「再」再録「原田勝の部屋」 第8回 翻訳の際の心がけ ── その3

★この回に挙げた、「声に出して読め」と「見直すほど良くなる」という心がけ二つは、やる気さえあればだれでにもできる訳文向上術だと思います。あとは、どれだけしつこくやるか。天才でない翻訳者は、しつこくやるしかないのです。(2017年08月01日「再」再録)★

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 この1月に、訳書『ウェストール短編集 真夜中の電話』の朗読会を銀座の教文館ナルニア国でやりました。自分の翻訳した作品の一部を人前で読んだのです。今回の「心がけ」には、「声に出して訳文を読め」がありますが、朗読会は、まさにそれを地で行く機会でした。

 真夜中の電話 (児童書)

 いやあ、これはかなり緊張、というか、疲労しましたね。そもそも、声を出しつづけることは肉体的な活動なので、実際に体力を消耗したのだと思います。

 

 読んでいて気づいたのですが、ああ、ちょっとここ読みにくいなあ、と思うところが、まだまだ残っていました。本になる前に、もう少し本気で声に出して読んでおけばよかったのかもしれません。でも、読者のみなさんは、ふつう、黙読するわけですから、声に出すと息が続かないけれど、黙読なら大丈夫、という文章もあると思います。そのあたりのことも、触れています。

 では、どうぞ。 

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第8回 翻訳の際の心がけ ── その3
(2008年2月12日掲載、2015年03月22日再録)

 

 「心がけ」第三弾は

               (6)声に出して訳文を読め

               (7)見直せば、見直すだけ、訳文は良くなる

 の二つのお題について書いてみます。

 

(6)声に出して訳文を読め

 実践している読者のみなさんも多いと思いますが、これは翻訳作業において容易に実践でき、しかも有効な訳文チェック法でしょう。

 でも、声に出して読むとなにがわかるんでしょうか?

 まず、声、つまり音と直結した効果として、訳文にリズムがあるかどうかチェックできます。同じ言葉を近いところで文末や文中に繰り返せば、リズムが単調になります。長過ぎる文や過剰な修飾語の羅列などは、読みづらいのですぐにわかります。最たるものが絵本でしょう。絵本の文章は、それこそ何度も声に出して読み、人にも読んでもらい、リズムのよい文になっているか確かめるべきです。幼年向けの読み物などもそうですね。なにしろ、子どもむけの本は、実際に読者である子どもが声に出して読んだり、大人が読み聞かせる場合が多いので、声に出して読みづらい訳文は致命的です。

 また言葉はもともと音声であり、文字はあとからついてきたものですから、音にしてうまく伝わらない文章には、なにか問題があると考えた方がよさそうです。これは読者の対象年齢に関わりなく言えると思います。わかりやすく言えば、朗読に耐える文章になっているか、ということですね。(うーん、自分で書いてドキッとしました。なかなかその域には達しません……。)

 一語一語の語義が正しく選択されていても、文や段落の中に違和感なく溶けこみ、それでいてしっかり意味を伝えてくれていなければ、いい文章とは言えません。声に出して読むことで、そのあたりがうまくいっているかどうかチェックすることができます。また言葉同士の相性というものがありますから、この目的語にこの動詞はないだろう、とか、この名詞にこの形容詞は釣り合っていないよ、などということも、声に出して読むと気づく場合が多いのです。

 また、声に出して読むと、語が語句に、語句が文に、そして段落へと繋がり、伸びていきます。音は一度に一つずつしか出せないので、紙に印刷された文字という平面的なものに時間軸が加わり、ある意味、三次元化するように感じます。会話や場面が立ち上がってくるような気がするんですね。いや、立ち上がってこない時は修正が必要とわかる、と言えばいいでしょうか。

 でも、おまえは、四百ページ、五百ページの小説を訳す時、本当に声に出して読んでいるのか、とおっしゃる方もいるかもしれません。白状します。声に出しては読んでいません。看板に偽りありです。すみません。でも、「頭の中で音にして読んでいる」のは事実です。ちょっと思い浮かべてほしいのですが、「この前読んだ本、面白かったなあ。通勤の行き帰りで読んじゃったよ」ということ、時々ありますよね。まさか、その時、あなたは声に出しては読んでいなかったはずです。さすがに、あまり速すぎると訳文のチェックはできませんが、頭の中で声を出すくらいの速度の方が、一度に広い範囲の流れや関係性をチェックすることができると思うのです。

 では、会話部分はどうか? ここは声に出して読んだ方がいいんじゃないか、と思われるかもしれません。でも、わたしは逆だと思います。というのは、文学作品の中の会話は、実際にわれわれがやりとりしている会話と同じではないからです。いいか悪いかは判断の分かれるところですが、活字になった会話には独特の文体があります。

 わかりやすいところでは、女性の発言の語尾につける「〜だわ」「〜なのよ」などといった言い回しでしょう。耳を澄まして聞いてみればわかりますが、現実にこういう語尾を使ってしゃべっている女性は多くありません。意外に男性が、意外に「〜よ」「〜ね」などという語尾を使っていることに気づくでしょう。同じことは、活字の世界で老人が使う「〜じゃ」「〜だのう」などにも言えます。でも、こうした物語特有の語尾は、しゃべっている人物の性別や年齢を生き生きと表現してくれる場合があるのです。現実とちがうからといって、使ってはならない表現だとは思いません。逆に、現実の会話を忠実に活字の世界にもちこんでしまうと、かえってだれがしゃべっているのかわからなくなり、味わいもなくなってしまいます。ですから、会話部分こそ、じつは頭の中だけで読んだ方がいいように思います。

 

(7)見直せば、見直すだけ、訳文は良くなる

「訳文を練る」という言い方がありますが、自分の書いた訳文は、いったい何度見直せばいいのでしょう?

 一昔前の先輩翻訳家の中には、喫茶店に入り、コンサイスのポケット英和を片手に、結末も知らずに原書を読みながら、万年筆で原稿用紙のマス目をぐいぐい埋めていった方がいらっしゃったそうですが、そんな芸当は自分にはできません。わたしには、読み返して推敲を重ねるしか訳文の水準を保つ術はないのです。

 では、どれくらい見直せばいいのか? 理屈としては、見直せば、見直すほど訳文はよくなります。当然じゃないか、と思うかもしれませんが、わたしが心底そう思うようになったのは、ごく最近です。

 翻訳を始めた頃は、訳者による個人差は多少あるものの、訳文には正解のようなものがあって、それを探り当てて書くものだと思っていました。だって翻訳勉強中は、添削者や先生に、自分の訳文を直されちゃうんですから、きっと正解があると思いますよね。ですから、逆に、この程度で◯がもらえるんじゃないか、と勝手に思うと、もう手を入れる必要はないと思っていたのです。どうやら、そうではないらしいと思い始めたのは、何冊か訳書が出てからのことです。

 これで正解だと思うから、それ以上手を入れなくなります。しかし、実際には正解などなく、無数の候補から選択した言葉の組み合わせがあるだけで、その組み合わせ次第で、訳文は様々な表情を見せ、陰影をもちます。どんな表情や陰影がふさわしいと「おまえは思うのか」という問が、翻訳者には常につきつけられているのです。しかも、「わたしの思い」は日々変化し、昨日直した表現が、今朝になると、元の方がよかったと思うこともちょくちょくあります。仕方なく、そこは元にもどしたりするわけですね。

 そんなことをしていると、ある一部分だけ読めば、三回目より四回目の方が不格好になってしまうことがあるのですが、作品全体としては四回目の方がよくなっているはずで、五回見直せば、四回目で不格好になった部分も、少なくとも三回目のレベルにはもどって、全体として瑕疵が減るはずです。

 そう、今、自分で書いて再確認しましたが、「瑕疵が減る」んです。むろん、八十点の文が九十点になる場合もあるでしょうが、零点、つまり誤訳に気づいたり、三十点の訳が六十点になる箇所もたくさんあって、それが全体としてのレベルを上げてくれると思うのです。自分の書いた日本語のミスに気づく力、これは翻訳者にとってとても大切な能力だと思うのですが、この力は読み返して直しを入れているうちに確実に向上します。

 数えてみると、わたしの場合、編集者に渡す前に、最低でも十回は自分の書いた訳文を読み直しているようです。実際には、うまく流れてくれない部分は、その前後を何度も読み直しますから、それ以上読んでいる箇所もあるでしょう。ゲラになってからも、初校、再校、場合によっては三校が出ますし、それぞれで二、三回読み直すことになりますから、都合、二十回近く自分の訳文に目を通すこともあります。

 最後の方はもう精神的にへろへろで、ゲラにむかって、「あ〜、この話知ってるよ、もう飽きた!」などとわめいているのを、家内と息子は年に何度か耳にしているはずです。それでも、句読点一つかもしれませんが、読めば必ずどこかを直しますから、読んだ甲斐はありますし、原作に力があれば、何度読み直しても知らないうちに物語の世界に入りこみ、じわっと涙が出ていることもあるのですから、文章というのは不思議なものですね。

 しかし、翻訳学校に通っている頃は、宿題の訳文をこしらえるのに、十回も見直したことはありませんでした。せいぜい五回でしょう。勉強中の読者の皆さん、ぜひ一度、自分の訳文を二十回読み直してみてください。できれば時間をおき、いわゆる原稿を寝かせながら、数日間にまたがってやるといいでしょう。二回目より三回目の方が訳文がよくなるのは当然ですが、十回目より二十回目の方が、やはり、絶対によくなっていると思うのです。十回目で、「これは全体のトーンがちがうな」と気づけば、最初から訳し直してもいいでしょうし、十五回目で「あれ、ここ誤訳だ」と気づくこともあるかもしれません。(わたしは時々あります。)

 翻訳技術を上達させるためになにをすればいいか迷っている方。単純ですが、これは有効な方法だと思います。すべきことはほかにもいろいろありますが、「とにかく見直す」というのは、あり、ではないでしょうか。

 

 残りのお題は三つ。次回で書き終える予定です。

(8)自分の日本語になっているか?

(9)言語は論理的なものだ

(10)翻訳に、絶対の規則はない                                                                                         (M.H.)