★文芸翻訳はやはり「表現」活動だと思います。「作業」だと思ったらおしまい。能動的な芸術活動だと考えた方がいい。(2017年08月27日「再」再録)★
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大それたお題で、よくもこんなに長々と書いたものだと思いますが、この四回に書いたことは、自分で納得するために書いたようなものです。まあ、そういう言い方をすると、このコラムは、結局、自分のために書いていたようにも思いますが。
梅雨の晴れ間、部屋から見た夕空。
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第36回 翻訳は芸術か? (その4)
(2011年12月19日掲載、2015年07月06日再録)
このお題も四回目に入り、読者の皆さんの中には、なぜこんなことを長々と書き続けるのかと思っている方もいらっしゃるでしょうね。すみません、今回でおしまいにしますので、どうかおつきあいください。
自分はなにをしているのか?
文芸翻訳を念頭において勉強している皆さんや、すでに訳書があるけれど、コンスタントに仕事があるわけではない翻訳者は、毎日こんなことをしていていいのか、いったい自分はなにをしているんだろう、という思いを抱いた経験が少なからずあるのではないでしょうか?
勉強中の皆さんは、いつになったら訳書が出せるんだろうという不安と常に戦っていると思います。ほかの職業であれば、参考書を読み、学校に通い、資格試験に合格し、求人広告を見て採用試験を受け、という道筋がある程度見えています。しかし、文芸翻訳の場合、訳書を出すまでの道筋はそれほどはっきり見えているわけではありません。学習量に比例して実力がつくかというと、そうではない気がするし、そもそも翻訳の実力とは何なのか、という疑問もあります。
すでに訳書を出している翻訳者だって、次の仕事が保証されているわけではなく、いつそれっきりになるかわからない不安を抱えているのが実情です。わたしも例外ではありません。
ですから、そんな不安を払うためにも、いや、納得して不安を受け入れるためにも、わたしたちは自分がとりくんでいる文学の翻訳というものが、いったいどういう性質のものなのか、頭の中で自分なりに整理しておく必要があると思うのです。そうでないと、毎日、多くの時間と労力を割き、神経をすり減らして、翻訳作業や学習を続けることはできないでしょう。
ピアノを弾くのは楽しい!
文学の翻訳が芸術であるとするならば、だれもがプロの翻訳者になれるわけではないのは当然です。こう言うと、傲慢に聞こえるかもしれませんが、絵が好きな人がみんな画家になれるわけではないし、音楽が好きな人が必ずしもプロの演奏家や作曲家になれるわけではないのと同じです。
では、なぜ、わたしたちは、先の保証のない文学の翻訳という仕事を、あるいはそのための学習を続けているのでしょう? それはやはり、文芸翻訳が表現活動だからではないでしょうか。芸術かどうかはさておき、表現活動であることは断言できます。ピアニストや画家にならなくても、ピアノを弾くことや絵を描くことそのものが楽しいように、翻訳は難しいけれど楽しい表現活動なのです。
翻訳のなにが楽しいのでしょう? まず原書を読む楽しさ、次にそれを評価したり比較したりする楽しさ、そして人に紹介する楽しさもあります。これは前々回書いたように、文学を読むことそのものが表現活動であるわけで、語学力を鍛え、知識を蓄えて、読む力を伸ばしていけば、それだけ楽しみが増えていく、とてもやりがいのあることだと思います。
そして、その作品を日本語で再構築していく翻訳作業そのものは、難しいけれど、やはりとても楽しい作業であり、創作活動と言ってもいいかもしれません。しかもその結果、本という形で作品が残るのですから、その達成感と喜びは格別です。さらに、出版という仕事は、作者や訳者だけでなく、編集や装幀や販売など、複数の人々の手によるチームプレイなので、そのチームの一員としての喜びも味わえます。
文芸翻訳の学習とは?
まだ訳書を出版する段階に至らない学習者の方々は、今述べた翻訳の楽しさのうち、最後の本になるところは味わえませんが、原書を読み、比較して、人にそれを伝え、自分なりの訳文を工夫するところまでは楽しめます。いや、そこに喜びを感じられない人は、文学の翻訳にはむいていないと思います。
プロのピアニストで、演奏してお金をもらうのは楽しいけれど、ピアノを弾くことそのものに喜びは感じない、なんて人はいないはずです。そういう人はピアニストにはなれません。文学の翻訳も同じで、訳書を出して印税をもらうのは楽しいけれど、原書を読んで翻訳することそのものは楽しくない、などという人にはむいていないのです。
外国語の実力があって、翻訳で食べていきたいと思っているけれど、文学や表現活動に興味のない人は、実務翻訳に向かえばいい。反対に、文学が好きで翻訳の世界に入ろうとしている人は、語学力をつけて文芸翻訳をやればいい、そう思います。わたしの場合は明らかに後者です。
ただ、文学が好きと言っても、読書経験は人によって量も質もジャンルもさまざまですし、趣味も感性も違います。文芸翻訳に携わる者は、個性を生かした翻訳をめざすことが本人にとっても周囲にとっても幸せだと思うので、学習者の皆さんは、まず、自分の読書経験、趣味や個性をよく考えてみることから始めるといいと思います。そうは言っても、うまく自己分析ができないこともあるでしょうから、そういう時は、さまざまな本に手を出して、とにかくいろいろ読んでみてはどうでしょうか。
文学の翻訳は、細かいテクニックも大事ですが、それよりもまず、原作を読んで面白いと思えるかどうかが何倍も大切です。英語を日本語に直す技術は、ある意味、二の次、三の次です。その前に、原書を読んで感動できなければ話になりません。そうでなければ、翻訳によって、いったいなにを読者に伝えようとしているのかわからないじゃありませんか。
ショパンが好きだ、リストを弾きこなしたい、ピアニストはたぶん、そうやって演奏曲を決めているはずです。だから、わたしたちも、このジャンルが好きだ、この作家はできればわたしが全部訳したい、そう思わなきゃ嘘です。翻訳学校に通っていた頃、師匠の金原瑞人先生は、1クール半年間の講座の初回に、必ず生徒全員に、好きな作家、翻訳したい作品を紙に書いて提出させていました。そう、結局そういうことなんだよなあ、と今さらながら思います。
キャリアとしての翻訳
文芸翻訳だけで食べている翻訳者の方もいらっしゃいますが、現実は厳しくて、ほかの収入源を確保しながら翻訳にとりくむケースが多いと思います。それでも、こつこつやっていけば、少しずつ訳書を増やし、実績を重ねていくことができます。そして、年に一冊、二冊出すのがせいぜいの、わたしのような兼業翻訳者は、訳書が少ない分、気に入った作品を翻訳したいし、積みあげてきた訳書のリストが自分の個性を反映するものであってほしいと願うものです。
翻訳が芸術だとすると、じつは、ほかの分野より、才能の不足を努力で補える余地が大きい分野だと思います。翻訳者は、演奏会場でのピアニストのように一瞬のスキルを求められることはありませんし、画家や彫刻家のようにゼロからなにかを創作するわけでもありません。ピアニストが楽譜を見るように、翻訳者には原作があり、画家や彫刻家が気に入るまで作品に手を入れるように、翻訳者は締め切り前ならいくらでも訳文に手を入れることができるのです。いいとこどりですね。
ですから、文学への愛情をもって翻訳にとりくみ、努力すれば、ほかの芸術分野より作品を世に送りだせる可能性は高いと思うのですが、どうでしょう? 一年に一冊、あるいは二年に一冊、いえ五年に一冊だって、訳書を出していけば、それはりっぱなキャリアだし、また、そう思える本を出していきたいものです。
なんだか、青年の主張のようになってしまいました。おそらく、わたしがこの四回、「翻訳は芸術か?」のお題で書いてきた内容については、読者の皆さんも、一人一人、さまざまな考えをおもちだと思います。こんな能書きはどうでもいいと思う方もいらっしゃるでしょう。でも、文学の翻訳という、マニュアルのない営みを続けていくには、とりくむ姿勢をこれと定めておかないと、局面、局面で、納得のいく判断が下せないのではないかとわたしは思うのです。原書を選ぶ時、その評価を下す時、出版社にもちこむ時、訳文のトーンを決める時、さまざまな場面に、そうした翻訳者の姿勢がにじみでるはずです。
わたしはやはり、文学の翻訳は芸術の一分野だと考えますし、翻訳は表現活動であり、条件つきの創作活動だと思っています。
皆さんはどう思いますか?
(M.H.)