翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

石井桃子さんの翻訳@『たのしい川べ』

 7月31日(月)に、川越の絵本カフェ「イングリッシュブルーベル」さんで、古典児童書を読む会がありました。課題図書は『たのしい川べ』。

『たのしい川べ』は、原作者のケネス・グレアムが息子さんに語ったお話をもとに作られた作品で、1908年出版。今回、わたしは石井桃子さん訳の岩波書店『たのしい川べ』を中心に読み、杉田七重さん訳の、西村書店『楽しい川辺』をちらちらと読みくらべていきました。

 作品の内容自体もおもしろいのですが、今回は、翻訳に注目して感じたことを書いてみます。

 タイトルの漢字の使い方からもわかるように、杉田さん訳は「だ、である」調で漢字も多く使われています。石井さん訳は「です、ます」調で漢字も少なめ。杉田さんは訳者あとがきで、石井訳があるのに新訳を出すのはためらったけれど、なによりロバート・イングペンのフルカラーの挿絵を読者に見せたいという思いもあり、引き受けた、というようなことを書いています。たしかに、イングペンのイラストはすばらしい。(個人的には、アナグマが胸に「B」という文字が大きく入ったTシャツ(?)を着てるのが気に入りました。)

 

 そして翻訳ですが、今回は原文を見ながら石井訳を読んでみると、うーん、こういう芸当はなかなかできない、と思いました。杉田さんの気持ちがよくわかります。たとえば冒頭ですが……

   The Mole had been working very hard all the morning, spring-cleaning his little home. First with brooms, then with dusters; then on ladders and steps and chairs, with a brush and a pail of whitewash; till he had dust in his throat and eyes, and splashes of whitewash all over his black fur, and an aching back and weary arms.

 モグラが巣穴の中で春の大掃除をしている場面です。もともと子どもに語ってきかせていたお話ということもあるのでしょう、リズムよく、たたみかけるように、そして心地よい音楽のように言葉がつらなっています。音としても、brooms, dusters, ladders, steps, chairs と複数形の名詞がつらなることで、sやzの音が続き、そのあと、brush, whitewash, splashes, whitewash と、sh の音が連続し、韻をふんでいるみたい。

 

 石井訳はこう。

 モグラは、その朝じゅう、いっしょうけんめい、じぶんの小さな家の大そうじにかかっていたのでした。まず、ほうきではいて、つぎに、はたきでちりをぬぐう、それから、はけと、しっくいのはいったおけを持って、はしごだの、ふみ台だの、いすだのの上にのる、というぐあいでした。そこで、しまいには、のどや目も、ほこりでいっぱい、黒い毛皮は、しっくいだらけ、背中はいたくなる、うではだるくなるというありさまになりました

(『たのしい川べ』石井桃子訳、岩波世界児童文学集、p.9)

 一見してわかるように、ひらがなが多く、読みやすいように読点を多用しています。また、とてもリズムがよくて、読んでいて楽しくなってきます。

 

 わたしが下線を引いた箇所は、わたしが訳すと、なかなかこうは言わないだろうな、というところ。自分なら、all the morning は「その朝じゅう」ではなく、「午前中ずっと」「昼までかかって」などとすると思います。「その朝じゅう」という表現は、ふだん使うかというと、わたしは使いません。

 「つぎには」の「は」も使わない。「つぎに」あるいは「それから」などとしそうです。「はたきでちりをぬぐう」も、たぶん「はたきでほこりをはらう」とするかな。「〜だの、〜だの」は、「〜や、〜や」としそう。「のる、というぐあいでした」は「のったりしていました」くらいか。

 「しまいには」ではなく、「そのうち」「とうとう」でしょう。「ありさまになりました」も、「ありさま」を使うんだったら、「……というありさま。」と体言どめにするかな。でも、たぶん、そうはせず、「だるくなってしまったのです。」ですませると思います。

 つまり、石井訳を原田風にすると、こんな感じ。

 モグラは、その日、昼までかかって、いっしょうけんめい、じぶんの小さな家の大そうじをしていました。まず、ほうきではいて、つぎに、はたきでちりをはらい、それから、はけと、しっくいのはいったおけを持って、はしご、ふみ台、いすの上にのったりしていました。そこで、そのうち、のどや目は、ほこりでいっぱいになり、黒い毛皮は、しっくいだらけ、背中はいたくなる、うではだるくなってしまったのです

 うーん、悪くはないけど、なんだかおもしろくない。石井訳にあった躍動感というか、春のウキウキ感というか、物語が始まるぞ、という期待感というか、あるいはもっと基本的な、物語感というのか、読み聞かせタッチ、というか、そういうものが薄れてしまっています。

 さらに、石井訳には、どこか時代感もあるように思います。調べてみると、石井さんが英宝社から完訳を出したのか1950年、改訂した岩波版は1963年刊行だそうですから、やはり、まだ少し古い文語調の日本語のタッチを残しつつ、そこに石井さんならではの、子どもに語りかける口調が加わっているのかもしれません。また、石井さんは埼玉県の浦和生まれですから、関東地方の比較的富裕な家庭で育った人の言葉遣いがまじり、独特の味を生んでいるように思います。

 ふしぎなのは、それがもしかしたら、この物語が書かれた1908年の、つまり100年くらい前のイングランドの動物たちは、こんな話し方をしたんじゃないか、と思わせることです。原文はとても平易な英語で、あまり色はないように思いますが、石井さんの訳を今読むと、現代の日本語の口語と少しちがうことが、かえって外国の動物たちの物語にふさわしい、といえばよいのでしょうか。それを意図していたのかはわかりませんが。

 

 で、考えるのは、こういう訳が、今、できるだろうか、ということ。もし、幼年むけの動物たちが主人公の作品を訳せ、といわれたら、むろん原文のタッチにもよるでしょうが、こういう訳文を200ページ、300ページにわたってやれるだろうか。たぶん、わたしには無理。

 もうひとつは、中野好夫さんの抄訳があったとはいえ、石井訳のこのタッチが、日本での『たのしい川べ』そのものとして受け入れられているところに、新訳を出すことのむずかしさです。昨年、小学館世界J文学館に収録した『タイムマシン』と『野性の呼び声』の新訳をやりましたが、あれは児童書ではない一般むけの古典を、子どもにも読めるように完訳する、というスタンスでした。なので、また別ものです。

 『たのしい川べ』はもともと児童文学で、しかも、定番の石井訳があるところに新訳を出す、となると、まず、原文に忠実な訳を、そしてその上で読みやすく、というアプローチにならざるを得ないでしょう。杉田さん訳はとても読みやすいのですが、石井訳のような思い切ったリズム感を期待するのは、それは無理な注文のように思います。そして、たぶん、もともと石井訳とはまったく異なるタッチの訳文を読者に読んでほしい、という方針があったはずです。

 その日モグラは、朝からずっと、小さな家の春の大掃除にかかりっきりだった。
 ほうきでちりをはき、ぞうきんでほこりをふきとったあと、漆喰を入れたバケツとハケを手に、脚立や踏み台や椅子に上がって、壁や天井を白く塗っていく。するとしまいには、ほこりが喉や目に入り、飛び散った漆喰で黒い毛皮は白く汚れ、背中は痛み、腕も重くなってきた。

(『楽しい川辺』杉田七恵訳、西村書店、p.10)

 落ち着いた訳で、おそらく、イングペンのイラストとの相性も考えたんだと思います。動物たちの毛の一本一本まで描きこまれたイラストには、石井さんの軽やかな訳文よりも、杉田訳の落ち着きがマッチしているように思います。

 

 というわけで、訳者が異なることでもたらされる作品の雰囲気の幅を強く感じた読書会でした。翻訳はむずかしい。

 

(M.H.)