翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

翻訳勉強会(2−11)「女性」問題

 原作に登場する man, gentleman や woman, lady 、あるいは boy, girl をどう訳すかはけっこう頭の痛い問題です。

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 原作にこんなフレーズがありました。

A voice from the back of the house said she had forgotten how much it was and to ask me.  The man walked to the screen door.

     How much, son?

 ( "Paperboy" by Vince Vawter, Chap. 3)

 

 担当のSさん訳。

 家の奥から「いくらか忘れちゃったから配達の子に聞いてみて」という女性の声が聞こえた。男性が玄関にむかって歩いてくる。

「いくらだったかな?」

 

 原田訳。

家の奥から女性の声がした。いくらだったか忘れたからきいてほしいと言っている。男の人は網戸の前まで出てきた。

「いくらだい?」

 (『ペーパーボーイ』、 p.35)

 

 いくつか考慮すべき点があります。

 まず、原文では "she had forgotten" という語句が出てくるまで、文頭の "A voice" が、女性の声なのか男性の声なのかわからないということ。ただ、Sさんは、セリフのあとに「女性の声が」と訳しているので、読者としては声についての情報をもらうのがさらに遅くなります。原田訳では、せりふより前に「女性の声が」としているので、読者は声の想像ができます。

 次に、女性のせりふを「  」で囲んで直接話法的に表現するか、原文のように間接話法にするか、という選択があります。Sさんは「  」を用いました。これによって臨場感が出ることと、読点を使わないというこの作品の縛りによる読みづらさを回避することができます。対して、原田訳は間接話法的に処理しています。これによって、主人公の少年が玄関ポーチにいて、網戸越しに家の中から聞こえる声を聞いているという、声との距離感を出すことができます(感じない読者もいると思いますが……)。どちらも一長一短ですね。

 "walked to the screen door" の訳ですが、Sさんは「玄関にむかって」、原田訳は「網戸の前まで」となっています。"to" を到達ととれば、網戸の内側まで来たことになるのですが、まあ、そこまでくる過程を表わせばSさんの訳になるわけで、これもありでしょう。

 

 で、今回の記事のタイトルにした「女性」問題ですが、これについては、どちらの訳も、「女性の声」にしています。ところが、"The man" の訳は、Sさんが「男性」、原田訳が「男の人」となっていますね。

 Sさん訳は、この段落に出てくる男女を、「男性」「女性」と統一した呼称にしています。原田訳はなぜ「男の人」「女性」と変えたかというと、この場面、上でも書いたとおり、女性のほうは声しか聞こえませんが、男性のほうは、視点であり語り手である主人公の12歳の少年の前に姿を現わしています。

 目に見えている女性が動作するのであれば、視点の少年が「女性」という言葉遣いをするかどうかを考えざるをえません。しかし、声しか聞こえていないのであれば、単なる声の属性として、「男性の声」か、「女性の声」か、という区別になるとわたしは感じたのだと思います。もちろん、そこも、やっぱり視点は少年なのだから、ということで、「女の人の声」としてもかまわないと思いますが、おそらくわたしの判断としては、視点は少年なのだけれど、小説の構造上、ここは地の文に近い描写であり、多少距離感をおいて硬い言葉遣いにしようと考えたのだと思います(もう、厳密にどう考えたのかは忘れてしまいましたが)。

 逆に "The man" のほうは、「男性」ではなく、少年の視点を感じさせる「男の人」にしたわけです。この部分に関して、他の参加者から、小学生の男の子にとって、大人の男の人を呼ぶ時は「おじさん」と呼ぶのではないか、という話も出ました。たしかに、「隣のおじさん」は、「隣に住んでいる大人の男の人」という意味でしょうね。ただ、ここで「おじさんは、網戸の前まで歩いてきた」とやると、ちょっと唐突ですね。セリフならありかもしれません。「おじさん、新聞代払ってください」「おじさんの家に子どもはいますか?」「あの家のおじさんは怪しい」とか……。ただ、視点である主人公がかなり幼い感じになってしまいます。そう、「男性」「男」「男の人」「おじさん」などを使いわけると、視点側の人物の年齢や性格が変わってくるのです。

 

 こういう判断に決まりはありませんから、訳者によってゆれるところでしょう。Sさんとわたしの訳をくらべた時、伝わる内容にさほど違いはないのですが、全編でこういう違いが続くとすれば、作品全体のトーンが変わってくることが容易に想像できます。では、どんなトーンにしたいのか? 主人公の少年によりそった、少し子どもっぽさを残した印象にするのか、それとも、できるだけ簡潔に、ちょっと突き放した感じにするのか?

 そこは、やはり原文全体から感じる雰囲気を、できれば日本語版にも投影したいものです。

 

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(M.H.)