翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム再録「原田勝の部屋」 《インタビュー》第2回 前半 ── あすなろ書房 山浦真一さん

 このインタビューを掲載した2008年当時には、まだ、わたしの訳した本で、あすなろ書房から出た本は、『ガンジス・レッド、悪魔の手と呼ばれしもの』だけでしたが、その後、4冊の本(『秘密のマシン、アクイラ』、『フェリックスとゼルダ』、『フェリックスとゼルダ その後』、『ハーレムの闘う本屋』)を出すことができました。

 山浦さんは、ほんとうに本がお好きな、出版が生きがい、という方で、一緒に仕事をしていて、とても気持ちのよい方です。また、『ハーレムの闘う本屋』の原書を最初に見てもらった時には、この本の力をすぐに見抜き、「やりましょう!」と即決、慧眼の持ち主でもあります。

 f:id:haradamasaru:20150401224401j:plain

 では、どうぞ。

 

ーーーーーー

《インタビュー》第2回 前半

 ── あすなろ書房 山浦真一さん

(2008年9月22日掲載記事 再録)

 

山浦 真一(やまうら・しんいち)さんプロフィール

 (株)あすなろ書房社長

 数多くの翻訳児童書を手がけている出版社「あすなろ書房」の司令塔。気さくなお人柄、ソフトな語り口ながら、即断・即決、実行力抜群。それでいて編集者としては大変きめ細かい配慮をしてくださる頼りになる出版人。奇しくも、聞き手原田と同学年、同じ神奈川県出身。ご自宅から社屋のある早稲田までの通勤列車内はもっぱら読書だそうです。

 

 対談企画、今回は、翻訳児童書を数多く出版しているあすなろ書房社長の山浦真一さんをお迎えしました。山浦さんとは、七年ほど前からリーディングをさせていただいたり、こちらから企画をもちこんだりというおつき合いをしてきました。それがようやく実を結び、この八月に拙訳でYA向けサスペンス、『ガンジス・レッド、悪魔の手と呼ばれしもの』(ディーン・ヴィンセント・カーター作)の出版にこぎつけました。これを機会にと思い、お話をうかがいました。

 

『木を植えた男』

原田:まずは「あすなろ書房」の会社概要を簡単に教えていただけますか?

山浦:会社設立は1961年で、創業者はぼくの父です。「あすなろ」の出版第一号は、父が椋鳩十先生から独立のお祝いにと原稿をいただいたもので、『母と子の20分間読書』という本でした。その後、椋先生の書き下ろしをはじめとする創作物の児童書や教育書を出版していました。

 ぼくが入社したのは1981年で、営業を二年やったあと編集に異動しましたが、最初に担当したのが「椋鳩十えぶんこ」全24冊のシリーズです。いきなり一人で任されて苦労しましたが、今思うといい経験でしたね。

 父のあとを継いだのは、1990年、31歳の時です。今は児童書を中心に出版していて、出版点数は年間40点ほど、その八割方が翻訳児童書です。

原田:お父様のあとを継ぐにあたって、ある翻訳書の出版がきっかけになったとか?

山浦:『木を植えた男』(ジャン・ジオノ文、フレデリック・バック絵、寺岡襄訳)ですね。ご存知の方も多いと思いますが、これは南仏プロヴァンスの荒れ果てた土地に、ただ一人、黙々と何十年も木を植えつづけた男の物語です。

 この本を紹介してくれたのは、小・中・高と同級生、高校では一緒にラグビーをやっていた友人で、某電機メーカーに勤めている男です。彼が「カナダにすごいアニメ作家がいる。おれのところでビデオを出すから、おまえのところで絵本を出さないか」と言ってきたのです。

 ぼくはそのアニメを見、絵本を読んで、この本の主人公エルゼアール・ブフィエの生き方に心の底から感動しました。そして、「ああ、ぼくが出版したいのはこういう本だ!」と悟った。それで、たいへん興奮しながら作りましたね。1989年のことです。思い入れたっぷりの本ですが、今見ると本作りは下手です。この時はまだ、装幀をだれかにお願いするなんていう考えも余裕もなくて、レイアウトもカバーも自分でやりました。

原田:そうだったんですか!

山浦:この本の成功で、社内は大いに盛りあがりました。素晴らしい本を出版できたという精神的高揚は、ぼくだけのものではなかった。その年の忘年会で、父が社員に挨拶文を配りました。そこには父の出版についての理念が述べられているのですが、これは今でもあすなろ書房の出版姿勢であり、ぼくの本作りの指針です。父がこんなことをしたのは初めてだったんですが、これもまた、『木を植えた男』という本の力だったのかもしれません。

 

「あすなろ書房 1989年 忘年会・あいさつ」(抜粋)

 出版とは文化・芸術・思想の伝達者であるわけで、だれしも出版に志したものは、われこそはその担い手と自負して努力しているのです。(中略)

 こんどの『木を植えた男』は、すべての条件を満たすものです。この本こそ、大勢の人々に伝える義務があります。寡黙で、ひとりコツコツ何十年も木を植え続けた男。荒れ果てた大地に林ができ、水も湧き出て、人々が幸せに暮らせる村ができる。しかし、誰も知らない。この木を植え続けた男を!

 この本こそ、あすなろ書房の出版姿勢です。「いい本ができたな。」で終わらせないで、この本を日本中のすべての人々にすすめ、売りつくしてもらいたいのです。

 そして、その人々の中から第二、第三の木を植えた男の出現を待つのです。

 出版とは、そういう仕事なのです。

    1989年12月22日 山浦常克

 

原田:身が引き締まるような文ですね。

山浦:年が明けて1990年、父は「こういう本が作れるようになったのだから、もう会社を任せてもいいだろう」と言って、ぼくに社長の座を譲りました。

木を植えた男

木を植えた男

 

 

海外のブックフェアへ

原田:その後の出版傾向を拝見すると、山浦さんの代になってから、海外の読み物や絵本が多くなったわけですが、そのあたりの事情は?

山浦:じつは、ぼくは若い頃から「仕事で海外へ行きたい」という想いがあって、海外のブックフェアに行きたくてしかたなかったんです。で、社長になった年からは、春のボローニャ、秋のフランクフルトには必ず行くようになりました。最初は右も左もわからなかったんですが、だんだんと版権エージェントの方たちとのおつき合いも広がって、仕事につながるようになっていきました。

 95年のことですが、フランクフルトのブックフェアで、ドイツの作家、ラルフ・イーザウが書いたファンタジー、『ネシャン・サーガ』に出会ったんです。イーザウのデビュー作でしたが、大々的に宣伝していました。分厚い本で、しかも三部作、これをうちで出すのは大変だろうなあ、と思いました。でも同時に、なにかピンとくるものもあったのです。当時八歳だった上の娘が海外ファンタジー好きで、「お父さん、もっと読みごたえのある本を出してよ!」と言っていたのを思いだしたんですね。

 で、エージェントの強い薦めもありましたし、なにより「ブックフェア・ハイ」とでも言うんでしょうか、気持ちが昂っていて、その場でオファーを出してしまったんです。もちろん、中身なんかよくわかりません。そもそも、ドイツ語はちんぷんかんぷんですから。

 帰国して熱が冷めてみると、急に不安になりました。それで、ドイツ語翻訳者の酒寄進一さんに電話して『ネシャン・サーガ』の話をしたら、すでに読んでいらして、「あの本、すっごくイイよ!」と言ってくれたんです。胸をなでおろしましたね。

 それでも出版するまでには慎重を期して、三巻全部読んで結末がわかってからにしました。やはり、あれだけのボリュームのあるものを出すには覚悟が必要だったということです。翻訳はもちろん酒寄さんにお願いしました。そういうわけで出版は五年後の2000年になったのですが、結果的にはそれが功を奏し、ファンタジーブームの波に乗ることができました。

ネシャン・サーガ〈1〉ヨナタンと伝説の杖

ネシャン・サーガ〈1〉ヨナタンと伝説の杖

 

 

原田:『木を植えた男』も、『ネシャン・サーガ』も、ヒット作が翻訳物だったわけですね。

山浦:そうなんです。版権エージェントさんや翻訳者の方々との出会いにも恵まれていました。

原田:山浦さんの編集者としてのカンも鋭かったんじゃないですか?

山浦:と言われると恥ずかしいのですが、ぼくはもともと論理的な人間ではないので、直感をいつも大事にしているんです。自称「感覚派」なもので。それに、じつはヤマっけもありましてね、「なにかに賭けてみる」というのが好きなんです。『木を植えた男』や『ネシャン・サーガ』の場合も、そういう部分がありました。

 翻訳物という見方をした場合、意図的にそちらにシフトしていくつもりはなかったのですが、どうやらぼくは、一から作品を作っていく創作物より、すでに原作があるものを、翻訳者や編集者、装幀家といった人たちとの共同作業で新たな作品にしていくという、コーディネートの仕事の方が向いているらしいのです。

(インタビュー後半に続く。M.H.)

 

(あすなろ書房創業者で、山浦さんのお父様、山浦常克さんは、2012年10月に89歳でご逝去されました。)