あとがきや訳注は不要だ、という考えもあると思います。
本というのは、それ一冊で完結しているわけではなく、ほかの本や辞書たちと相互に関係しあって知識の集積の一部を成していると考えれば、原作や原作者にまつわる情報は、その本の中になくてもいいのです。
さはさりながら……。
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第29回 あとがきはだれのため
(2011年1月24日掲載記事 再録)
いつからこういう習慣が始まったのか知りませんが、日本の翻訳書の多くは「訳者あとがき」なるものを載せています。翻訳者から見れば、出版社からの依頼で「あとがき」を書かされるわけですね。まるで、いやいや書いているみたいですが、じつは、わたしは、あとがきを書くのが結構好きです。
あとがきを書く頃には、たいてい翻訳作業は山場を越えています。それまで数カ月間、できるだけ原文に忠実に、余分な手は加えず、省略もせず、原文の言葉はなんとか訳文に織りこむという苦行を続けてきたあとだけに、訳者あとがきで自由に言葉をあやつれるのは、まるで監獄から出て野原を走りまわっているような気分です。でも、果たして好き勝手に書いていいものなのでしょうか?
訳者あとがきの果たす役割
おそらく、かつての訳者あとがきの目的は、大学の外国文学専攻の先生方が、古今の名作を訳したあとで、作品の手法や読みどころを解説したり、文学史上の位置づけや、原作者の紹介、邦訳を出す意義などを読者に知らしめたりすることにあったのではないかと想像します。
翻って、現在のように、必ずしも評価の定まっていない作品が次々に翻訳される時代に、わたしのような専門的に文学を研究したことのない訳者は、どういうねらいであとがきを書けばよいのでしょう?
以下に、経験上、あとがきを書くときに念頭におくようになったことがらを挙げてみます。
(1)広告・宣伝機能
これは出版社が訳者あとがきに求める機能であり、訳者としても意識せざるを得ません。なぜなら、読者の中には、あとがきを立ち読みして、その本を買うかどうか決める人がいるからです。もちろん、翻訳した本人が作品をけなすわけがありませんから、読者は割り引いて評価するのでしょうが、それでも、どういうタイプの作品かはあとがきでわかる、あるいは、わかった気になる場合が多いですよね。
宣伝効果を上げるためには、いくつか盛りこむべき必須事項があります。まず、主人公やストーリーに関して、読者を読む気にさせる情報をちらりと見せること。本国での受賞歴や評価、作者のヒット作などにふれることも大切です。また、YAや児童書の場合は、主人公の年齢や描かれている題材を紹介することで、一番読んでほしい読者にその本を届ける助けとなります。
さらに、編集者が、あとがきの中のフレーズを帯や宣伝に流用することもありますし、図書館や新聞の紹介欄に、明らかにあとがきの抜粋・要約が載ったりもします。ですから、嘘をつくわけにはいきませんが、苦労して訳した作品の良さをどうやったらネタバレにならずにコンパクトに紹介できるか、頭をひねることになります。個人のブログや各種サイトの書評でも、明らかにわたしの訳者あとがきに誘導されている文章を見かけます。誘導というと聞こえが悪いですが、たぶん、少ない言葉で作品のツボを表現しようと思うと、あとがきの言葉が便利なのでしょう。
(2)本や作者にまつわる情報
今でこそ、インターネットの検索機能で、瞬時に原作や原作者についての情報を調べることができますが、わたしが翻訳を始めたころは、まだ、これほどウェブ環境が整っておらず、こうした情報は読者にとってありがたいものだったはずです。ですから今でも、できるだけ紹介することにしています。とくに、同じ原作者の訳書が複数の出版社から出ている場合、出版社の作る広告や目録に他社の本は載りませんから、他の作品や既訳書の紹介は訳者あとがきが負うべき仕事だと思います。また、(1)で挙げた海外での受賞歴や作者の評価などもこの部類に入りますね。
(3)背景や専門用語の解説
とくにYAや児童書の場合、作品の背景についての基礎知識を補うため、あとがきの一部を簡単な解説に割くことがあります。一般むけであっても、扱われている題材によっては解説が必要な場合があるでしょう。あとがきで触れることで、本文中の訳注を減らせるという効果もあります。
訳者は、翻訳作業中にいろいろ調べものをしますが、わたしは調べたことを端から読者に教えたくなります。もちろん、ページ数に限りがありますから、あまり詳しくは書けませんが、『二つの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ作、徳間書店)では、訳者あとがきだけで15ページも書いてしまいました。そのうちの半分は、こうした背景の解説です。書いた時は読者の皆さんにも知ってほしい一心でしたが、今思うと、よくあんなにたくさん載せてくれたものです。まあ、全体で500ページを超える作品なので、10ページや15ページはどうということもなかったのでしょう。
(4)謝辞
一冊の本を翻訳すると、原作者、編集者に世話になることはもちろん、ほかにも知恵を借りたり、手を借りたりします。そして、できれば、その人たちの名前を本のどこかに残しておきたいと、いつも思います。全部は無理としても、せめて編集者や専門知識をお借りした人には、あとがきの中でお礼を言いたいですよね。もっとも編集者さんの中には、これを固辞される方もいらっしゃるのですが、個人的には、作品のどこかに名前を残しておくべきではないかと思っています。
(5)訳者の思い
そして、なんといっても、翻訳した作品の傍らに訳者の思いを残すことが、あとがきの最大の目的だと、わたしは身勝手に考えています。この本のどこがいいのか、なにを感じてほしいのか、登場人物のだれがわたしは好きか、読者に訴えたいことは山ほどあります。そして幸いにも、今まで、気に入らない本をしぶしぶ翻訳したことはありませんから、それがわたしがあとがきを書くのが好きになった理由なのかもしれません。リーディングで気に入った原書を紹介する時に力が入るのとまったく同じで、「ねえ、ねえ、これおもしろいよ。読まないと損するから! なんてったって……」というおせっかいな思いこそが、わたしのあとがきのエッセンスです。
一方で、本来、文学作品というものは、まえがきも、あとがきも、訳注も、年表も、地図もなく、ただ本文のテキストがそこにあるというのが本来の姿だ、という考えもあるでしょう。読者はもてる知識や記憶や感情を総動員し、なんの助けも借りず、先入観もなくテキストと向きあい、勝負する、これが、文学とのあるべき対峙の仕方なのかもしれません。事実、今でも、日本の作家が書いた純文学の単行本には、ふつう、あとがきや解説はありません。しかし、数ある外国語で書かれた作品の中から、この作品を訳した思いを、本文を読み終えた余韻が薄れぬうちに読者に伝えたいと思うのは、それほど筋違いなことではないと思います。ですから、あとがきは添え物であることを念頭においた上で、簡潔で節度ある、しかし熱のこもった文章を書きたいものです。
あとがきはだれのため?
まれに、読者から訳者であるわたし宛にお手紙をいただくことがあります。そして、そのつど、ほんとうに励まされます。じつは初めていただいたお手紙は、先輩の児童文学翻訳家の方からのものでした。その中で、わたしの訳者あとがきのことに好意的に触れてくださっていて、大変うれしかったことを憶えています。少なくとも、ああ、こういうあとがきを書いてもいいんだと、意を強くしました。
さて、結局、あとがきはだれのためのものなのでしょう。皆さんはどう思いますか?
(M.H.)