先日の『ハーレムの闘う本屋』の朗読会で、作中に引用されていたラングストン・ヒューズや、ポール・ダンバーの詩を読みました。どれもとてもいい詩で、胸に刺さります。学生の時に授業で習ったシェイクスピアやワーズワースの詩はおもしろくなかったのに、という話をしたら、Q&Aのコーナーで、それはなぜなのでしょう、という質問を受けました。
その時答えたのは、「詩はそれだけ読んでもよくわからないけれど、物語の中に挿入された詩は、言葉がストーリーと響きあって、生き生きと意味をもつからではないか」ということでした。
今まで翻訳した作品でも、引用された詩を何度か訳しています。今日は、『二つの旅の終わりに』の中から、ベン・ジョンソンの詩を紹介します。
少し作中の状況を補うと、年老いたオランダ人女性ヘールトラウがホスピスにいます。イギリスからやってきた少年ジェイコブの祖母にあたる人です。祖父の名も同じジェイコブ。第2次世界大戦中に出会った二人は愛し合うのですが、祖父のジェイコブはお腹の子を残して急死しています。初めて会ったジェイコブとヘールトラウのやりとりから引用してみます。
「……声に出して読んでほしいものがあるの。短い詩なんだけど」
死にかけた女性の頼みをだれがことわれようか?
「ぼくでよければ。上手にできるかどうか──」
「あなたのお祖父さんはこの詩が好きだった。わたしに読み聞かせてくれたわ。わたしも彼のお墓の前で読んであげた。どうしてもあなたにそれを読んでもらいたいの」
ジェイコブはただうなずくばかりだった。
「キャビネットの引き出しよ。本が入ってるわ。紙がはさんであるページ」
くたびれた、あちこち角を折りこんである本だった。赤とクリーム色の表紙は色あせ、薄汚れている。
「ベン・ジョンソンですか?」
ヘールトラウは顔をこちらに向け、真剣なまなざしで食い入るようにジェイコブを見た。
ジェイコブはその詩を知らなかった。何行か目を走らせ、頭の中で読んでみたが、慣れない十七世紀初めの英語につっかかるのではないかと心配だった。
ああ、もう時間がない。
ひとつ息を吸い、自分に言い聞かせる。落ち着け、集中しろ、言葉だけを見て、行を追い、句読点どおり切ればいい。ちょうど、あのスコットランドを舞台にした劇の稽古で教わったように。
ジェイコブは大きく息を吸うと、読み始めた。
樹木のように太く大きくなったとて、
優れた人になるわけでなし、
三百年、樫の木のように立ったとて、
切り倒されて、葉をなくし、残るは干からび乾いた丸太のみ。
それにひきかえ、たったひと日の命でも、
五月の百合は麗しい、
たとえその夜に伏して死すとも。
そは内なる光を映す花。
小きものの中にこそ、われらは美を見出し、
わずかな時にこそ、人生は全きものとなりぬべし。
廊下で、医療器具を運ぶ音が響いた。
部屋の中の沈黙が、病院の空気で包まれた。(『二つの旅の終わりに』p.218 - 219 )
この本の装幀は、鳥井和昌さん。朗読会の席で初めてお目にかかることができました。本は人をつなぎますね。
(M.H.)