翻訳者の部屋から

児童書・YA翻訳者、原田勝のブログ

コラム「再」再録「原田勝の部屋」 第18回 リーディングのディテール(その3)

★リーディングは、翻訳書という形ではあれ、本を世に出すための第一歩と言ってもよく、もっと大切にすべき仕事ではないかと、この頃強く思うのですが、どうでしょう?   出版社も、そこのところをもっと真剣に考えてほしい。(2017年08月14日「再」再録)★

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だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ

だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ

 

  都築響一さんの、この本、本文中にもとりあげましたが、本を作るということ、ものを書くということについて考えさせられる本です。

 

 また、NHKで放送していた書評番組、『週間ブックレビュー』の児玉清さんのこともとりあげました。児玉さんは、残念ながら、このあと、2011年に亡くなられています。本を「評価する」のではなく、児玉さんがそうだったように、「面白さを語る」という姿勢は、じつはリーディングの文章にも必要なのではないでしょうか。

 編集者だって、冷静な評価だけを聞きたいわけじゃないと思います。

 

 では、どうぞ。

 

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第18回 リーディングのディテール(その3)

(2009年9月14日記事、2015年05月09日再録)

 

この前のあれとどっちが面白い?

 前回、いろいろな評価ポイントを挙げて、少し分析的に書いてみましたが、つまるところ、本は、面白いか、面白くないかです。いろいろ理屈をつけても、心に響いたか、泣いたか、笑ったか、ですよね。でも、面白ければいいのかというと、それも少し違うような気がします。そこで、前回挙げたポイントのほかに、次のようなことも考えてみるといいでしょう。

 まず、「翻訳物ならではのハードルの高さ」を念頭におくこと。原作が存在するということは、その作品は本国では出版してもよい水準をクリアしていたわけですが、われわれからすれば、翻訳するからには、その中でもとびきり面白い作品を選びたいものです。そう考えると、本国での出版より数段厳しい水準を設定してもいい、ということになります。前回書いた、「自分が原作者、海外版元の編集者に次いで、三人目の理解者でもいいじゃないか」という話と矛盾するかもしれませんが、毎年、数え切れないほど生まれてくる作品の中から、これはというものを日本に紹介するんだ、という気概をもつべきでしょう。

 次に、自戒をこめて言いますが、「仕事が欲しい」という目線で見ていないか、ということ。翻訳者がリーディングをする場合、どうしても原作を高く評価して企画を通してもらい、ひいては自分が翻訳する、という流れで見てしまいがちです。甘い評価を下せば、いつかは自分にしっぺ返しがあると思わなければなりません。

 それでも、時には安易に、ああ、これならまずまず翻訳出版してもいいんじゃないか、と思ってしまうこともあります。そんなときは、今までに編集者の方々からもらった言葉を思い返します。まずは「良書とは、二度、三度読み返したくなる本」という言葉。よく言われることですし、このコラムのインタビューでも、徳間書店の上村さんがおっしゃっていました。つまり、二度読もうとは思わないと感じたら、ボツです。また、やはりインタビューでとりあげた、あすなろ書房の山浦さんは、時おり、「この前のあれと、どっちがおもしろい?」とおっしゃいます。これもわかりやすい基準で、それまで一生懸命に「これ、出版しましょうよ」と勧めていたのに、そう言われると、とたんに冷静になって、なるほど、この前企画を出して結局通らなかったあの本とくらべても、ちょっと劣るかな、とか、いやいや、断然こっちの方が……、などと、頭の中がすっきりします。

 

編集者とのやりとり

 リーディング段階でのこうした編集者とのやりとりは、とても楽しいものです。ですから、レジュメができたら、できるだけ出向いていって、編集者に直接レジュメを手渡し、話をしたいものです。この手続きは、もちこみの場合は必須ですが、依頼されたリーディングでも、直接会って話をすると、編集者との人間関係ができていきますし、なにより、本についての理解が深まることが多いのです。

 何時間かかけてレジュメを書いているのですから、それなりに考えてコメントをつけたはずなのに、編集者と話をしていると、一人の時には気づかなかったことに気づくことがよくあります。いや、わたしの場合、ほとんど必ず新しい発見があると言っても過言ではありません。とても不思議な感覚なのですが、本のいいところ、悪いところを話しているうちに、ふっと気がつく事柄があるのです。ああ、どうしてレジュメを書いている時に気づかなかったんだろう、と毎回思うのですが、目の前にいる人に言葉で伝えようとしていると、一人の時には途絶えていた脳の回路がつながるのかもしれません。たぶん、こうした気づきは、次の機会に生きるでしょうし、なにより、だれかと本の話をするのは理屈ぬきに楽しいことです。

 

情報収集

「あらすじ」「評価」と来て、「その他の情報」も、レジュメには入れなければなりません。インターネット環境の整備に伴い、ひと昔前にくらべると、原書に関する情報収集はずいぶん簡単になりました。以前は購読している英米の書評誌に書評が載っていないか調べたり、作者のことを調べるために、当時日比谷図書館の中にあった児童書資料室の作家辞典を見にいったりしたものです。今では、うまく調べれば相当量の情報が家にいながらにして手に入ります。当然、編集者も同じ環境にありますし、基本情報はすでに版権エージェントから受けとっているはずです。しかし、実際には何冊もの原書をかかえて、詳しく調べる時間がないことも多いようですし、そこはリーダーが調べて情報提供しておくと喜ばれるでしょう。また、海外での評価を知ることで、自分の評価の参考にもできます。あまり多くのレポートは必要ないと思います。場合によっては参考サイトのURLを書いておく程度でもいいでしょう。

 情報収集と言えば、本を評価する目を養うために、ふだんから新聞・雑誌の書評欄や、テレビ・ラジオの書評番組をチェックして、書評者がどういうところに着目しているかを知ることも大いに参考になります。新聞の書評欄は社会科学系の硬い本を扱っていることが多く、児童書やヤングアダルトものの評価の参考になることは少ないのですが、NHK-BS放送の『週刊ブックレビュー』という書評番組は、小説や翻訳物もよく扱っていて、面白い話が聞けます。とくに、司会者と三人の書評者の合評コーナーが面白いですね。互いにやりとりしながら理解が深まっていったり、感想が食いちがったりするところがとても興味深いのです。この番組、司会が週代わりで交替するのですが、とくに読書家として有名な俳優の児玉清さんが司会のときは、本への愛情あふれる熱いコメントを聞くことができます。NHKラジオでも、月に何度か児玉さんの書評コーナーがあるのですが、こちらでも、さらに熱く語っています。

「いやあ、この本は面白い!」「わたしにはピンとこなかった」「胸に響きました」「朝まで一気読みです」「この脇役がいい!」「人物造形が……」「伏線が……」「大どんでん返し……」「これを言うとネタバレになっちゃいますが……」 児玉さんの話しぶりを聞いていると、結局、リーディングって、こういうことなのかもしれない、と思うのです。

 リーディングの話をしてきたつもりが、どうも、最後には「本は面白い」という話になってしまいました。ひとつお断りしておきますが、わたしの守備範囲は児童書やヤングアダルトを中心としたフィクションなので、タイトルにした「ディテール」は、ジャンルが違えば、またそれなりのディテールがあると思いますので、あくまで参考と考えてください。

 

だれも訳さない本は、だれかが訳さなきゃならないんだ

 このテーマについて書きはじめた頃、『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(都築響一著、晶文社)という本を知りました。写真家、編集者、ルポライターとして著名な作者が、主にノンフィクションや雑誌を紹介している本なのですが、タイトルどおり、えー、こんな本、だれが買うんだよ、というものが目白押しです。でも、どの本にもパワーが感じられ、本に関わる者としては勇気が出る書評集です。

 なによりタイトルにそそられます。もじって言えば、「だれも訳さない本は、だれかが訳さなきゃならないんだ」。これ、かっこよくないですか? ちょうど、このコラムに使える文句だぞ、とほくそ笑んでいたのですが、あとがきを読んでぎくりとしました。

 

長井健司を覚えていますか―ミャンマーに散ったジャーナリストの軌跡

 

 

 じつはこのタイトル、著者と親交のあった映像ジャーナリストで、2007年9月にミャンマーのデモを取材中、兵士に撃たれて亡くなった長井健司さんが常々おっしゃっていたという、「だれも行かないところは、だれかが行かなくちゃならない」という言葉を元にしていたのでした。長井さんは生きていればわたしと同い年です。テレビで何度も流れた長井さんの最期は記憶に鮮明に焼きついています。翻訳者も、こうした気概や覚悟をもて、と叱責された気がしました。どんな本も、一冊、一冊、大切に読み、真摯に評価したいものです。

(M.H.)